浜田山の印象

 日曜日は浜田山のポルシェ・ショウルームに行ったのだが、井の頭通り浜田山付近は、自動車メーカーの販売店のメッカだった。
 国産はトヨタ、日産、三菱、スバル、ホンダがあった。会社はポルシェ以外にBMW、フォルクスワーゲン、アウディがあった。
 東京も、井の頭通りから西になるとクルマが必要になるのだろう。

 学生時代は永福町の駅を利用し、大宮八幡宮の前を通り、松の木ゴルフセンターに住んでいた。大家が松の木ゴルフセンターのオーナーで、練習場の脇に「松の木ゴルフ荘」というアパートがあった。
 そこの2階に住んでいたのだが、目の前がパット練習場、その先が打ちっ放しで、ミドリに溢れ広々とした快適な環境だった。

 好きなオンナの近所でもあったので、とても気に入っていた。しかし暴力学生として暴れまわっていた時期だったので、慶大・日吉を担当する神奈川県警・港北署のゴトウという公安刑事が、毎日のように待ち伏せしていた。
 大宮八幡脇の川にかかる橋のたもとで待っていた。「イーズカくん、今日は早いんだねえ」などと話しかけて来る。煙草を勧められると、吸ってから必ず川の水の中に捨てていた。DNA情報などゼッタイに取らせない。

 松の木の大家とは仲が良かったのに、この公安刑事が告げ口していた。
 ある日、大家さんから「学生運動しているって、ウソだろう?」と訊かれて、即座に否定した。
 しかし次に会った時は、表情が変わっていた。当時は内ゲバで次々に活動家や周辺シンパが殺されていた。
 そこに「イーズカは、慶応の学生運動のリーダーです」と垂れ込まれたのである。
 その頃、党派の活動家がハイエースのクルマごと焼き殺された事件もあった。クルマを挟み撃ちにされて止められ、ドアを鉄パイプでメッタ打ちにされて閉じ込められ、窓を割られて火炎瓶を投げ込まれている。
 火を逃れて飛び出せば、鉄パイプで脳天を叩き割られる。陰々滅滅たる事件だった。

 もう世間では学生運動を支援する人間など居なくなっていた。イーズカも吐き気がして、見切りを付けていた。
 そんな時に、夜逃げ引っ越しをせざるを得なくなった。しばらくは住民票も移さなかった。

 昨日は、行きは方南通りで向かい、帰りは大宮八幡から松の木を抜けて、青梅街道で戻って来た。
 松の木ゴルフセンターは健在で、ゴルフ荘も建て直されていた。
 杉並区の中央線や井の頭線の沿線は、高級住宅街である。相変わらずの空気が流れていた。

 上京して最初に住んだのが桜上水だったので、東京の第一印象が杉並区である。あれは18歳だったので、もう46年も経っている。

 これから30年は頑張るつもりで、90歳まで働く覚悟である。
 何故ならば、ポルシェを買わなくてはならない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?