菅原幸助著「現代のアイヌ」より

1962年から66年まで、朝日新聞記者として道内のアイヌやギリヤークを取材した菅原幸助さんという方が68年に出版した「現代のアイヌ」から、印象に残った部分の引用。個人に対する具体的な差別事例については、読んでつらい記憶を思い出す人もいるかと思い、割愛しました。見出しは引用者によるものです。

<劣等民族なのか>

アイヌ系の学童は知能、学力の点で全国の標準より劣っているのだろうか。〇〇先生はこれを調査するために過去五年間の資料を集めた。学力テストをくりかえした結果では--和人のこどもに少しも劣っていない。音楽、工作にはずばぬけた才能を持つ学童がいる――という結論だった。先生は道内の教育研究集会で、この資料を公表して、コタンの学童の指導にいっそう力を入れている。(P37)
 
※もちろん善意に基づいた調査なのですが、和人とアイヌの学力を比較し、アイヌは劣った民族ではない、と教研集会の場で発表せざるを得ないような社会一般の意識。それが、半世紀前のこの社会の姿でした。

<同化し、滅びるべきなのか>

アイヌのことを書いた『森と湖の祭り』(武田泰淳著)を読んだことがありますか。あの小説の一節で、アイヌ学者が女画家に言う言葉があるんです。『アイヌは悲惨な過去をすっかり忘れ、日本の労働者、農民としてしっかり生活を築いてゆく。その前進に融け込むなら、いまさらアイヌだ、ウタリだとか、セクトにかたよらずに未来の幸福をきりひらく路へ進軍した方がいい』とあります。あそこが好きで、何回も読みました。ボクの考えていることをそのままに表現しているのです……」(P47)
 
どこの学校も同じだが、〇〇校長は教室ではむろんのこと、学校生活ではアイヌという言葉を禁句にしていた。人間平等はきわめてあたりまえのこと。こどもの人権を傷つけたくない、という心づかいからだ。けれども、そうした先生の心をはっとさせるようなことがある。教科書や夏休み学習帳などに、不用意にアイヌという言葉がでてくるのだ。「ちょっと考えると、なんでもないようなことが、こどもたちの心にヤリでつきさすような痛みを味あわせることになるのです。三年ほど前のことですが、教科書にアイヌの話がでてきたのです。内容は『コロポックルとアイヌが住んでいた。コロポックルがよく働いて食糧を貯蔵しておくと、アイヌがやってきて、コロポックルの食べ物をだまして持ち去ってしまう。神様が怒って、なまけもののアイヌを……』というようなことが書いてあるのです。コロポックルは働き者で、アイヌはなまけ者、というような童話に作りあげられているわけです。ここのコタンのこどもたちが、それを読んだらどんな感じを抱くか、わたしははっとして、本のその部分だけをやぶいてすてさせました。」(P63)
 
「私はウタリ(同族)の人たちに、もうアイヌは同化していなくなった。なにもアイヌにこだわることはない。胸を張って堂々とがんばれ、と励ましているのです。町に近いコタンなので町との交流もはげしく、私たちの若いころからみると、とてもよくなってきました。町の人たちのなかにも協力者がふえてきたし、養子縁組み、里子、里親などもあって、蘭越コタンは急速に同化が進んでいます」(P68)
 
私は「アイヌのひとたちの幸福のために」とか「アイヌはシャモと、同化していくべきだ。そのためにはアイヌとシャモが正常な形で、男女の愛情の上にたってどしどし結ばれていくべきだ」「いやそうするためにいろいろな障害をとりのぞく必要がある。あなたのように立派に成功されているひとの体験や考え方を聞きたい」などと、説明して、彼女から話を聞きだすことに努めた。(P74)
 
「アイヌは長い年月、シャモに苦しめられてきたため、シャモに対してはにくしみと一種の劣等感をもっている。アイヌの血が流れている、ということだけで、同じ能力を持っていても、社会に生きていく場合、あらゆる点で不利なことばかりだ。自分たちは、社会で不当な扱いをされるのがいやだから、アイヌでありながらでないような顔をしている。アイヌでないような扱いを受けたときは、たまらなくうれしく、アイヌの扱いをされたときは無性に悲しくなるというのが現代のコタンの感情だ」と彼等は訴えていた。(104)
 
もう、私の部落にも純粋のアイヌはいなくなりました。和人との混血がふえ、和人との結婚をくりかえしているうち、アイヌは消えてゆくというのがアイヌの幸福をつくるあり方だと思います。それはアイヌが滅亡するのではなく、和人のなかに同化してゆくことを意味するもので、むかしの本州でも、このようなことがくりかえされて和人ができあがったものだと信じています。(P106)
 
「アイヌ文化は滅亡すべきだ。アイヌ文化といっても、それは差別、偏見、掠奪の歴史であって、誇るべきものはないのだ。調査研究しているのはみんなシャモではないか。それは学者や研究家が、それによって有名になろうとしているだけで、アイヌ文化の研究でアイヌは一つも救われていない」(P195)
 
アイヌという民族はもう存在していないのだ。したがって特にアイヌの団体をつくって活動することはおかしい。ウタリ協会が存在することによって、アイヌが存在しているような錯覚にとらわれるではないか。協会はアイヌ解放を叫びながら、逆にアイヌの差別、偏見を助長する結果を招いているではないか。と、つまりウタリ協会解散論を主張しているのだ。
 協会解散論を主張しているのは主に青年たちである。(P217)
 
 
昭和三十六年六月、アイヌ学者の北海道大学教授、知里真志保博士が亡くなった。札幌市のある団体が「アイヌの偉大なる人物を失ったのは限りなく惜しまれることだ。コタン(村落)の青少年のなかから、第二の知里博士を育てようではないか。優秀なアイヌの青少年を推せんしてくれたら、大学からその先まで経済的にもいっさいの面倒をみてあげたい」と日高地方の関係者に申し入れたのである。
さっそく二人の候補者が選ばれた。しかし、この二人の高校生は、団体からの援助をきっぱりと断わった。その理由は、
ボクたちはアイヌであることを忘れることにつとめてきた。そのボクたちに、なぜいまさらアイヌのラク印を押さねばならないのか。アイヌ学者になって有名になるよりも、平凡なサラリーマンになりたいと思う。知里博士のような偉い人物でも、アイヌであることを悩み続け、その苦悩のなかで死んだではないか。ボクたちは「アイヌでない。日本人だ」ということが最大の幸福と考えているのですー。というのだった。(P220)
 
民族学的には、もう「アイヌ民族」はいなくなったといってもいいのではないか。ここ百年ぐらいの間に、アイヌはいろいろな形で同化が進み、純粋のアイヌ人は数えるほどに減ってしまったからだ。日高静内町の静内高校の生徒たちが、クラブ活動で、町内に住むアイヌ人の血統調査のようなことをやったことがある。その結果では、この町に住むアイヌ系の人たち五百人(百二十世帯)を調査したところ、六代目までの先祖の人には必ず本州人と結婚した人がいて、純粋のアイヌ人は一人も発見することができなかったそうだ。「千島アイヌ」と呼ばれた人たちが、終戦のとき、千島から根室に避難上陸し、根室地方に住み着いたはずだ、と聞いて根室市をたずねてみたが、「二百人の千島アイヌが市内にいたのだが、同化したのか、いまではさがしだすことはできない」ということだった。(P260)
 
※アイヌ自身から漏れる「教育現場から『アイヌ』という言葉を一掃し、過去を忘れて日本の労働者となり、和人との結婚を繰り返しながら消えてゆく」といった言葉。とりわけこうした「同化こそが解決」といった言葉が各所に現れ、胸が痛む。これはもちろん、この時期の日本社会で横行していた根深く激しい差別がアイヌをしてそう言わしめたのだ。半世紀前まではそういう社会だった。ただ、その中でも、わずかだが、誇りを持ってアイヌとして生きていく道を模索する青年たちの姿も描かれている。

「ボクたちはアイヌから逃げだし、日本人として生きるために努力してきたが、アイヌを逃げだすことができないことを悟った。それならアイヌを看板にして生きてみよう。それも滅亡していく哀れなアイヌでなく、アイヌ芸術を身につけた、優れたアイヌとして生きていこうと考えたのです。民芸品も量、質ともにシャモのおみやげ品会社に負けないでやっていこうと思っている。みんな自動車の運転ができるようになって原料の購入や製品の出荷は自分たちの手でやるのだ」(P186)

<土地はいかに奪われたか>

日露戦争で樺太が日本の領土になったとき、樺太開発のためにウレキナウスしゅう長とコタンのひとたちが動員された。ウレしゅう長は若者たちを引き連れて小樽港まで歩いた。小樽から船で樺太に渡り、シャモの役人たちに従って働いたのである。クマやトッカリ(アザラシ)を射ち、道案内や物資運搬、鉄道工事などの労役を続けた。十年、二十年とこの樺太労役がくりかえされているうちに、郷里のキナウスコタンには本州から開拓者が大勢移住してきた。鵡川の川口からチロロ岳のふもとまで、ウタリたちが大切なクマやシカの宝庫にしていた原野は、シャモの開拓者たちの手でつぎつぎと開墾が進み、畑や牧場にかわってしまった。(P17)
 
「村役場にもだまされたのです。村長がコタンにやってきて、きみたちの給与地を村有地に提供してくれんか。そうすれば税金をなくしてやる、というんだ。それで、みんなが土地をだしあって提供したところ、その村長が辞めたとたんに、前と同じに高い税金をとられるようになった。税金をとるなら給与地を返せ、と抗議したが、アイヌは負けてしまったのです」(P112)
 
アイヌたちは飲むほどに、酔うほどにご機嫌になってにぎやかにはしゃいだ。「きょうの酒のお礼に、クマの皮でもさしあげるべやあ」と行商人をもてなすと、行商人はにやにや笑いながらいった。「いや、クマの皮も有難いが、ワシもこの村で百姓をやってみたい。少し土地をくれんかなあ」コタンにシャモが住んでくれるなら、願ってもないことだ。アイヌのひとたちはさっそく給与地を出し合って、この行商人を村に住ませることにした。十年、二十年とたつうちに、この行商人はつぎつぎとアイヌの給与地を手に入れ、いまでは村一番の大地主になってしまった。ショウチュウを持ってきて、村人にごちそうして借りた給与地の小作契約書には「九十九年間は小作料をとらずに土地を貸します」と書いてあったが、当時のアイヌたちは文字を読めないので気にもとめていなかった。しかし三十年ほどすぎたころ、コタンの若者たちがこの契約書を読んでびっくりした。「ばかなこった。これでは欺しとられたも同じことだ」と怒って訴訟を起こしたが、行商人の永小作権を侵害することはできない。とうとう負訴し、そのうち農地法の制定で、アイヌの土地は移住した行商人の所有権になってしまった。(P114)

※この項には、どんなコメントもいらないでしょう。これが、アイヌの暮らすモシリが「北海道」になって起きたことです。

<アイヌ文化の収奪、改ざん>

白老町では若いアイヌ青年たちが中心になって、観光コタンをなくする運動をやってきたが、観光コタンはさびれるどころか、逆に、北海道観光ブームと共に繁昌するばかりだ。観光コタン反対運動を進めてきた青年たちにとって、頭の痛い問題である。町のお祭りや記念行事があると「白老の町はアイヌで知られているから、アイヌのイヨマンテ(クマ祭り)をやって人を集めよう」ということになる。青年たちはそのたびに「日本の神社のお祭りや町の記念行事にアイスを引き合いにだすことはあるまい」と反対してきたが、アイヌのクマ祭りがシャモたちの手で行われてしまうのである。(P82)
 
先年、北海道庁が白老町の観光をふくめた町づくり診断をやったことがある。その報告には、本州の観光客はアイヌの姿に接することで北海道の印象を深める。それにはいまの観光コタンは近代的で、自然のアイヌの姿を表現していない。現在の観光コタンを、町から一キロほど離れたポロト沼に移住させ、むかしのアイヌの生活様式をやらせるべきた。興味をますためにはショーであってもよい。そうすることで収入がふえれば、アイヌの生活は向上し、観光白老町の発展になるではないか。
と結論している。
これにはコタンの青年たちもカンカンになって怒った。(P83)
 
「アイヌとシャモの争いは、むかしの話ではなく現代にもいろいろな形でくりかえされている。日高地方に東京の映画会社がロケーションにやってきたことがある。映画のシナリオは、アイヌの娘とシャモの男の悲恋物語になっていた。アイヌの服装をしたエキストラが大勢必要だ。映画会社がコタンのひとたちに交渉したところはげしい反対にあった。映画のストーリーがあまりにもアイヌをぶじょくしているほか、神話や風習などがデタラメになっているからだ。映画会社は金の力にものをいわせてエキストラを捜しまわったが、とうとう応じてくれるコタンがいなかった。結局、観光地の見せ物アイヌを使って、アイヌ物語のロケーションをまとめたのである。(P101)
 
このアイヌ文化といわれる民芸品は、観光ブームに乗って北海道の代表的なおみやげ品にのしあがってきた。だが、ここにもシャモの"黒い手"がのびてきている。観光事業家たちが、民芸品でひともうけしようと、木彫りのクマなどを粗製乱造しているのである。クマ彫りはアイヌ民族に伝わってきたすばらしい木彫技術にヒントを得て、シャモが考えたものだ。ところが大量に生産してもうかればいい、というやり方で、彫刻技術も製品の内容もおそまつなものになっている。(P198)
 
※本書にはこのほか、北海道ウタリ協会など当事者団代の事前の了解を得ずに旭川市が主催して開かれた「北海道アイヌ祭り」の話、シャクシャインをしのぶ祭りがアイヌの意思に関係なく町の観光宣伝のために使われることにアイヌの怒りが爆発し、翌年から中止となった話も紹介されている。文化を伝承してきた当事者をないがしろにした商業利用。それは過去のことなのでしょうか。果たしてウポポイは、アイヌの主体的な動きの中で企画され、整備されたものだったでしょうか。


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