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言葉を標本箱にしない

カフェでひといきつきながら、別に考えなくてもいいようなことを考える時間が好きだ、というのをやっと今思い出している。というのも、この不要不急なイベントは、もう半年以上も封印されていたからだ。

普段はロルバンのノートに書きなぐることが多いので、どこにも公開せず、わたしのなかだけで忘れ去られていくのだけど、今日はパソコンを持ち出していたので、せっかくだからnoteに書くことにした。とはいえ、殴り書きと大して変わらないから読めたものじゃないかもしれないけど。まあ、とにかく。

コツコツと日々の記録を書き溜めていて、もちろんオンラインなので都合の悪いことや本当にプライベートなことまであけっぴろげにしてはいないけど、それくらいのテンションの記録が溜まっていくのは実は面白い、と読み返すたびに思う。半年前の自分が書いた文章を読んで、確かにそれは自分「だった」のだけど、現在の自分ではないな、と感じられる。なにも書いていなかったら淡々と忘れていったであろう「自分でありながらもはや自分ではない姿」が、きちんと残されていくことは、時々めちゃくちゃこっぱずかしいけど、時々ちょっと勇気をくれたりする。

この夏のわたしは、どうやら気がおかしくなりそうな日々を送っていたらしい。意味もなく泣いたり、理由なく寝られず朝を迎えたり、ぼおっと日々をやり過ごしていたり。「時間は有限で、ひとしくすべての人に与えられているから、何もしないなんて勿体ない。自分の成長できることをするべき!」論者の言いたいこともわかるが、何も手につかないときって本当に何も手につかないんだな、と思ったし、空っぽの数か月だったけど、そこから学べることもあった気がする。これは今だから思える話で、当時はふつうにしんどかった。

フランスに行って、現地でもちょっとその名残はあり、気持ちのアップダウンはあったけど、帰ってきて一か月経って、今は結構落ち着いているな、と思えている。いい意味で、いろんなことがどうでもよく思えた、ということもある気がするし、物事の期限が近づいてきてやらなければいけないこと、やりたいことが遂行できそうだからかもしれないし、厳密にこれが理由ですとは言えないけど。

未だに起きれない朝は多いけれど、意味もなく泣いたりしないし、理由なく寝られなかったりしない。ああ、そういう時期を通り抜けたんだな、と、記録を読み返しながら思える。書いていたからわかる気がする。

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ここからわかるもう一つのことは、文字は時間を閉じ込めるので、読まれたときにはそれは過去のことであるということ。過去はどんどん過去になる。

これはわたしの話だけではなくて、アイドルのインタビューなんかを読んでいても思う。彼らのしゃべった言葉は、その時点での彼らにとってかけがえのない真実だけど、私たちが耳にしたときには、過去になっている。「おたく」という種は、過去をコレクションすることを好むし、本人たちが覚えている以上に過去を記憶しているし、執拗にそれを振り返る。それしか私たちが知りえる情報はないからだ。彼らと私たちの間にはいつも時差がある。彼らの放った光が地球に届くには、何光年かかかるのである。私たちの知る彼らはいつも過去の彼らである。

それを忘れると、言葉の中にいる彼らと、実存する彼らの間に矛盾があったときに勝手に悲しくなったり怒ったり喚いたり批難したりしてしまうような気がする。人は変わるから、良くも悪くも変わるから、勝手に静止させてしまってはだめなんだよなあ。生きている人間を標本箱に入れておくことはできない。

本や漫画やアニメといったコンテンツと、中に人間のいるコンテンツの大きな違いは、結局はそこなんだろうな、と思うので、やっぱり人間を消費するコンテンツに触れるときはずっと気を付けていなければならない。「この人はこういう性格!」と決めてかかって言葉にしてしまったとき、それは何十年もそのままなのか?いや、そんなことはない。たった一日でも一週間でも、ずっと同じ性格かどうかなんてわからないし、同じ考えかも分からないし、だから、言葉に閉じ込めてしまうことを危ぶみたい。

言葉にすることは必要だけど、それはそれでおそろしいことなのだ、ということを忘れずにいたい。わたしは変わるし、あなたも変わるし、それはたとえ画面の中のアイドルでも、変わっていくから。

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