#Quarantine 20200528~20200607

5月28日(木)

下請けした仕事の修正を朝からやる。ついでにもう一案件を受ける。くわえて大学の同期からもパースの下請け仕事を引き受ける。パワポとフォトショをぽちぽち。あっという間に夕方。無心作業系は音楽やラジオがかけられて楽しいけど、あっという間に時間が過ぎて終わった瞬間にどっと疲れがくる。考え事系とはまたちがった疲れ。

夜21時からコンペの打ち上げをZoomで開催。このコンペは、なかなか収穫のあるコンペだったなあと実感する。途中でオンラインに切り替わったこともあるけれど、それぞれが役割を共有しながらできたし、それをキュレーションするメンバーもおり、わたしはわたしなりに、自分の立ち位置を模索したりしながら動けた。3学年またいでのチームはそれはそれで面白い。そして時間があったこと、チーム編成がうまくいったことは、それなりに出力に接続していく、というひとつの成功体験だった。飲み会は2時まで続く。

5月29日(金)

朝起きるのがつらい。リズムを整えはじめると、リズムが崩れたことにも敏感になるらしい。

引き受けていた仕事を終えて、お給料を手にした。久々にうれしい。自分のための制作と他人のための制作は、バランスよく交互にあると都合がいいのかもしれない。

10時から友人と悩み相談会。わたしの悩みが迷宮入りしていることを再確認する会になった。迷ったら、そっと引いて見る。人の話を聞く。違うことをやってみる。いつもと違う本を読む。

3年生の授業で同期がプレゼンをするということなのでZoomのリンクを送ってもらって潜る。インターネット授業になって簡単に「潜れ」なくなった側面と「潜り」やすくなった側面があるなあと思う。場所が奪われ、不均一で不健康な平等性が与えられたような感覚。あとはプレゼンの方法が全く異なってくるので、そのへんをきちんと頭にいれていつもとは異なる方法で効果的なプレゼンをしないと、すごくもったいない。柔軟でいなければならないなあと痛感した。

「医療従事者への感謝」を表すためにブルーインパルスが飛んだ。わたしは飛行機がすきだけど、正直、あまり肯定的な気持ちは抱かなかった。
・「感謝」と「戦闘機によるパフォーマンス」という戦争賛美に見間違うような接続がいやだった
・十分な実利的な支援が行き届いていないように見える今、「パフォーマンス」から力を入れていくのは「うちで踊ろう」にまつわる一件と共通する思惑を感じた
・そして、なにより、騒音と環境破壊が気になってしまった

わたしが演劇や映画や音楽といった芸術を嗜好し、それらを「不必要なもの」と言われることを拒むように、「ブルーインパルスを飛ばすことは不必要だからやめろ」と言う権利はないのかもしれない。「感謝」が届けられるべき「医療従事者」に届いたと感じられているのならば、それはそれで意義があったともいえる。だけどわたしは、この違和感を放棄して、手放しでその「美しい飛行機」を肯定したくないのだ。

飛行機が(見た目やその機能として)好きだけど、それが飛ぶことによる環境負荷や今回の思惑についてはずっと考えていかなければならないな、と思っているし、アイドルが好きだけど、アイドルを愛でることによって起きる「人間性」の消費の仄暗い側面からも目を背けてはならないと思っている。

本屋に電話をしたら『ART SINCE 1900』届いているというので(連絡くれなかったのに)取りに行ってきた。やっと手に入った!

5月30日(土)

昨日に引き続いて。「わたしたち」が煽動される対象として消費されている感じが気にくわないのだろうな、と思った。踊っているのではない、踊らされているのだ。

ヨーロッパで、毎夜20時に医療関係者にみんなで拍手をして感謝を伝えましょう、という出来事と、感謝しているので政府が自衛隊に委託して戦闘機飛ばします、みんなで見ましょうね、という出来事。違くないですか?

フォーティーの『言葉と建築』を読む。なかなかの分厚さ。

5月31日(日)

日曜なので特になにもしない。なにもしないという権利を訴えています。

6月1日(月)

イェール大の授業が見られるので、見てみた。20分くらいまでとてもおもしろく聞いていたのに、その後めちゃくちゃねむくなる。そして事前知識と字幕を持ってしても太刀打ちできなくなり、休憩。 https://youtu.be/YtK18ImMkp8

お昼寝明けにフランスに電話。最近夜更けに連絡をすることが多かったので、外に光が差しているうちに電話するのはとても久しぶり。今日はフランスは祝日なのである(なんかキリストが昇天して、何日目かの...なんらかのなにかの日)。一年暮らした程度では、祝日の感覚は染み込まない。日仏共通しているのは元日とクリスマスくらいのもので、あれ、日本はクリスマスは祝日ではなく近くに天皇誕生日があるだけだったかもだけど(それももはやなくなった)。オリンピックがなくなって、海の日だとか山の日だとかスポーツデーだとか、もうほぼほぼ脈略のなくなった祝祭日だけがカレンダーに取り残されている。まあなにがいいたいかというと、フランスにはゴールデンウィークもなく、海の日も山の日もなく、慣れないわたしにはほぼ毎月急にやってくる理由の分からない休みの日、だったのである。なので、今日もなんの祝日だったかよくわからない。

花火、楽しみにしていた気がしたけど、実際20時は気づいたら過ぎていた。

6月2日(火)

きっちり8時前に起きた割に、10時の定例会の存在を忘れる。次回私担当。忘れずに。そして、いつものゼミも準備が終わっていないだとかで飛んだようだった。楽しみにしていた、というかルーティンとしていたので残念。

ゼミの自分の担当回について後輩とぽちぽち連絡など取る。だいたいの主題は脱構築なのだけど、建築における脱構築って別に潮流でもなくただの展覧会の題目なのでは?と気づいてドツボにはまる。デリダでもきちんと読むか。『声と現象』をAmazonでポチッとした。

15時。「あそび」をテーマにして活動するという知人の知人を紹介されたのでさらなる知人をつないでミーティング。わたし、こんな活動していたなあ、と遠き日を思い返したりなどした。新プラトン主義に頭を悩ませながらインターネットをさまよう自分を抱えて、ずいぶん遠くまできてしまった......と思いつつ、でも実は脈々とおんなじものが流れているんだよなあと思ったりする。今は実践を置いてけぼりにしながら、理論を学ぶ時期だっただけ。いったりきたりするのが理想だね。

(レッジョ・エミリアだって、バフチンやヤクビンスキーやプーパーの上にあるもんね)

6月3日(水)

修論のためにパワポをぽちぽちつくっていると、光明が見えた気になる。でも不思議なことにパワポが完成すると、もう破綻だらけのような気になるのよな。結局はその積み重ねなのだろうな。積み上げて壊して積み上げて壊して。そうやっていくしかない。

『声と現象』読み始める。わからん。わからんすぎる。

チェロを取りに新宿まで行った。見違えるように音が元に戻っていて、急にうまくなったような気分になる。気分だけだけど。

帰りにご褒美のケーキを買った。

6月4日(木)

早起きできない。先週と寝る時間は大して変わらないのに、なぜだろう。

つらくて身体が不調になったり死にたいと思うくらいなら、それは逃げていいのだけど、つらくなりたくない怒りたくないずっと平穏な気持ちでいたいから何にも怒らないというのもどうなんだろうな、と思う昨今。個人の精神バランスもあるから、怒りたくても怒れないタイミングもあるだろうけれど。どういうふうに折り合いをつけていくのだろう。一時期流行った「ハッピーに生きる」みたいな呪文が、清濁抱えてそれでも強く生きるという意味合いならばよいけれど、くさいものにはフタをしてハッピーだけ盲信します、という意味ならば。

6月5日(金)

めちゃくちゃ『愛の不時着』を観た結果、最終話までたどり着く。ロマンス的な感想を脇におけば、北朝鮮の「儀式的」側面はメディアから観察できたけれど、生活は想像さえできなかったので、興味がわいた。ロマンス的な感想とすれば、「韓国ドラマ」はかくあるべし的「韓国ドラマ」よな。「韓国ドラマ」を欲している人はこれじゃん、っていう。わたしはというと、最近花男再放送なんで決まらんの?!と思っていたところだったのでちょうどよかったです。ところで、わたしもスイスの湖畔に家を買いたいのですが。

6月6日(土)

朝。『シェアの思想』を読み終える。まあそうやな、って内容ではあった。

久々の外食を企んで、悪友だか盟友だかの会を開催。ずっといきたかったカレー屋さんに!(でもそもそもモダンインディアンの「コース」を食べたいと言って選んだ店だったのだけれど、テイクアウトしてピクニック...の話にすり変わり、天気も斜めなので気づいたらふつうにカレーランチ、になっていた。)人と会ってごはんを食べる、って本当に「ふつう」のことなんだけれど、愛すべき「ふつう」だった。

人類学者による『小さいリズム 隈研吾論』を読む。起きている出来事は、一介の建築学生に降りかかる出来事とほとんど同質で、既知的なものだったけれど、それをひっくるめて他者的視点から観察されるとこのように記述できるのか、というところは新しい発見。

夜スカイプする。フランスから感じるコロナの「雪解け」と私が今ここで感じている「雪解け」がだいぶ異なるのでは?と感じる。7月に国境が開いたとして、7月に気軽に旅行へ行こう、って思えるのだろうか、私。「国境が開いたらすぐにでも訪ねたい」という気持ちは確かに存在するけど、それが可能か、という話はまた別な気がする。

6月7日(日)

鷺宮にある古いアトリエを見学できるというので、遠出してきた。「保存」とはなんだろうか......と考えさせられる。もともとはほとんどバウハウスのデッサウ校舎のような2面大開口のアトリエで、日本においてはほとんど現存していない木造のモダニズム建築として文化財指定されている。この時代に見られる貴重な建築資源であることは間違いないのだけれど、平面計画もキーだったはずの大開口も繰り返された増改築によって大幅に変更されている。窓が切り取っていたはずの田舎の田園風景ももはやないわけで。建築の傷みもかなりすすんでいた。「何が残されていれば」それは建築が「保存」されていると言えるのだろうか。。。住むために手を加えていく、機能を更新していくことはごもっともで、そうしなければ継いでいくことはできないわけで。少なくともこのアトリエには、建築を資源として未来に継いでいきたい・利活用したいという人々の意思が息づいており。意思だけでは建築は保存できないのかもしれない......とさみしくなってしまった。「建築」ではなく「場」として言えば、すてきな庭にコーヒーとパンと近隣のコミュニティーが集うよい「場」でした。

友人と簡単にお茶して帰宅。行き帰りで『レイシズム』を読んだ。

昨日までは「ふつうに」日本の大企業で働くのでいいんだ、と思っていた気がするけれど、今日になってまたひっくり返る。「ふつうに」「当たり前に」「満員電車」に乗ってしまうような「自分」がいちばんいやなんだったんじゃなかっただろうか。過去の自分に絡め取られてしまいそうな「自分」がいやだったんじゃなかろうか。極端なふたつの思想の間で揺られて、おかしくなりそうである(そして、そのふたつが両方とも自分の生み出した考えであることに、頭がくらくらする)


#Quarantine


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