#Quarantine 20200510~20200521

#Quarantine

5月10日(日)

昨日からのゆらゆらを引きずりながら論文やらねば、とボードリヤールとヌーヴェルの対話を読み終える。

気分転換に、ちゃちゃっと空想住宅の図面を引きモデリングを立ち上げてTwinmotionを使ってみる。使ってみたかった。面に厚さが与えられていないと、マテリアルを当てたときにバグが起きてしまうらしい。学び。あとは、全体的にマテリアルのスケールが大きいので、10倍とかにしてモデルを取り込んでもいいのかも、とは思うがそうすると操作性が低くなる。なるほど。

加藤耕一の『時がつくる建築』も再読。

恋人と電話。なんの論文書くの、と問われて言いたくなかったのに、結局話してしまって、結果、相手のあまりの論理性理知性の高さに、自分がいやになる。だからいやだったのに。

夜に地震がある。茨城沖で震度3らしい。あと大雨。湿度が高い。

5月11日(月)

8時に起きたのに、結局活動開始が11時とかになる。謎。

論文の仮案をもうひとつ模索。既往研究をまとめる。こっちのほうが定量的に書けると思うがわたしっぽくない。ような気もする。でも個性は押し殺してもそのなかから出てくる、ってJ.Y.Parkも言っていたしな。

17時から1時間くらい外を走る。が、半分くらい歩くはめに。2週間ほど前に打ったおしりが治ってきてやっと運動ができるようになった。筋トレも再開したい。

夕飯後、母が感染症、ソーシャルヘルス関連で新書を持って帰ってきたので、読む。イチロー・カワチの『命の格差は止められるか』。書いてあることはこのコロナ期においてはもはや常識として認識され始めたような、貧富の差による健康格差だ。現在において常識とされ始めたような考え方のベーシックが書かれている。COVIDに感染した患者を治療する医療機関は川下の医療で、そもそも感染しないように予防する「生活」を浸透させるのが川上すなわちソーシャルヘルスの研究であり政策ということらしい。わたしたちが今やらなければならない「手を洗おう」という、なんとも原始的な、原点に立ち返ったような行為こそ、社会全体の健康につながる、という、ここ数ヶ月で改めて感じたようなことが、きちんと書かれている。これがこれからの当たり前になっていくのだろう。
ところで、アメリカの非・国民皆保険的な保険制度はやっぱりおそろしいな、と思う。個人の利益重視で裁判ばかり行うのもほんと疲れる。(グレイズアナトミーを見ながら。マリッジストーリーもそんなだった。)

今日はフランス語をやり損ねた。

5月12日(火)

10時から定例会なので火曜日は早く起きれる。10時半から12時半までゼミ。先週に引き続いて、絵画における精神分析の周辺を学ぶ。シュールレアリスムやナチス芸術。美術史の知識があまりにもないので本当はルネッサンスとかから学びたいんだけど、なぜか近代を学んでいる。芸術の価値が転換するところなので面白いっちゃ面白いが、古典にまつわる基礎的知識をどこかで補わなければな。(宗教画のたのしい見方、とかじゃなくて。)

フランス語。passe composeの単元が長すぎる。基本的なところは抑えているつもりなので機械作業的になる。言語の学習は一時間しか集中力が持たない。明日からは例外を追う作業なので、穴だらけの穴を埋めよう。

あっという間に16時。なぜ。

せっかくの時間なので、いろいろ手持ちの開いていなかった本や図集を開いてトレースをしようという試みをはじめる。手始めに自粛前に行った所沢聖地霊園と西武遊園地のディテールから。

気づいたらどうしても調べたい住宅(近所にあるらしい)の住所をネットサーフィンするドツボにはまり、そこから近所の著名住宅リスト作りに精が出る。日常的に見るものから実はどこだかよくわからないものまで。近所の散歩のときにでも、それを目標にして歩こう。

夜。恋つづ最終話を見る。やっぱりいい。テラスハウスが再開したので、ベランダのハンモックで見る。やっぱり耐え難く気持ちが悪い。気持ちが悪いというか、危険だと思う。海外で当たり前に浸透している「コンセント」の概念が、こんなにも脅かされている現実を目の当たりにする。It's simple as tea! 耳元でかさかさ音がするなと思ったらヤモリが入ってきていた。ヤモリとみみずとテラスハウス。

5月13日(水)

10時半活動開始。論文やるぞ、という気持ち。土曜日に学生ゼミでもやろうか、という話になっていたので、二つ作った案の再構築を試みる。まだなにかピースが足りない。普遍的な話すぎるのか。遠いのか。でも、自分がやりたいことには近づいてきた気がする。

amazonで頼んでいた本が届く。リノベ、コンバージョンの事例集系4冊はさくっと目を通した。まだ読んでいないもう一冊は厚めの理論本だから後回し。中古で、線の引いてある本を久しぶりに買ったけれど、元の持ち主はリズミカルで大胆に線を引く人である。勢いを感じる。

ちょうど一緒にパリ留学していた友人から修論のエスキス依頼が届く。他人の進度を見ると自分のモチベーションにもなって、いい。

答えが出ないので、散歩にでかけることにする。昨日調べたいくつかの場所を頭に入れつつ、使い捨てのインスタントカメラを持って出かける。夕刻。日が暮れかけていたので、フラッシュを焚かずに撮ったものはだめかもしれない。

夕飯後、また論文やる。答えは見えない。作業ゲーの域に入りたい。無心で作業したい。気づいたら日付を超える。フランス語今日はできなかった〜。

5月14日(木)

10時半活動開始。規則正しく遅寝遅起きが定着しつつあるけど、外に出かけたりする外的因子がないので早寝早起きに矯正する術もない。まあしなくても今のところ弊害はないのでいいんだけど。

フランス語を1時間。半過去の章9ページもやったのにまだ9ページも残っていると知って先は長いな。

昨日の夜に考えたことを元にまた目次を書き直す。なんか3歩進んで2歩下がる感じで元いたところに戻ってきている気がする。もっと近道があったのではないかと疑ってしまう。進んでるならまあいいか。...進んでいるのか?
もっと建築だけに目を向けて、私情も思想もへったくれもなく、定量的に淡々とすすめればいいのだろうけど、哲学とか言語学のほうに頭を使いすぎてどんどんそっちに引っ張られる。わたしの好みなのですが。そういうものをディレッタントとして切り離して、定量的に淡々とできる研究分野を選んでおけばよかったなあ。量子力学とか?流体なんとかとか?細菌学とか。わからんけど。(というか絶対無理だろうな、理系苦手なので......)

人間、自分の持ちうる能力を精一杯活かして生きていくしかないのである。

とある記事を読んでいて、千葉さんの言うドゥルーズの思想が急にクリアに理解できた。「非意味的切断」「接続過剰への批判」「建築の自律性と他律性」「コンテクスチャリズム」。

17時から散歩。1時間歩くとだいたい6000〜7000歩だということがわかる。

緊急事態宣言の39県での解除が決まる。と、言われるとなんだかこの自粛生活が終わったような錯覚になるのは私だけじゃないと思う。それでも東京はまだ宣言下にあるし、そもそもこの生活に終わりなどないのだ。果てない〜。

植えたトマトに黄色い花が咲いた。

5月15日(金)

気づいたら16時。なにかしていたんだけどなにをしているかはっきりと思い出されない。おかしい。今日はめちゃくちゃやる気が出ない。曇りだからか。

グレイズアナトミーはNetflixにあるS12まで見終えた。そのあとはアマプラとかにあったらしいけど、先週配信終了したらしい。今後の出方を見ている。

連綿と続いていく日々が、同じ場所で同じコミュニティで同じように続いていくから、今が何曜日でどれくらいの時間が経っているのか、わからなくなりそうになる。このままあっという間に年を越しそうだ。同じ場所で同じように生活する日々は、新しい発見もあるし娯楽も決してゼロではないし牢獄の中でもないので、いいんだけど、いいんだけど、でも、例えば一か月前に電話をした友達とふたたび電話をしようとしても大して話のネタが増えていないというか、ぼんやりとした閉塞感がある。全然コロナと関係ない話をしたいけどなんだかんだ戻ってきてしまうし、娯楽の話をわあきゃあしたいけどいつも通りには供給されないし、最近行った場所や旅行の話なんてできない(できてスーパーマーケットに行った、とかそんな話)し、この夏のヴァカンスはどこへ?なんていう能天気な話さえ空回る。

2年前にラオスの村を訪れた時に、子どもたちが道の小脇でたむろっている様子を見た時にも思ったなあ。この子達は毎日毎日何を話すのだろう、と。インターネットも届かず、テレビもなく、ただ平然と広がる大自然の中で、貧しく、病院にも行けなくて困った家族を抱えて、それでも毎日毎日集まってなにかをずっと話している。小学生は遊んでりゃたのしいし、話が通じなくても楽しかったけど、だんだん、だんだん、わたしは「会話の積み重ね」を楽しいと思うようになってしまった。遊んで走り回っているだけの日々に戻れない。

5月16日(土)

朝から論文。夜にゼミをやる予定なのでそれまでに形にしたいけど、と考えれば考えるほど草案が二転三転。

20時から解散した研究室の同期とゼミ兼飲み。収穫はあった。あまりにまとまっていなくて言葉にならなかったこと。当たり前のことをやろうとしているけど、そこに価値と面白さを感じてしまっているのだけど、これは当たり前な部分もあるけど、面白くなる気もする、といってくれる人もいた。このまま向き合っていよう。

夜は『ハーフ・オブ・イット』を観た。わたしは友情でも恋愛でもないけれど「大事にしたい」人の存在を信じている。なんらかのカテゴリーにいれたら、消滅してしまいそうで、淡いまま手入れをして保っているのだ。どちらかが脱ぎ捨ててしまったらこの関係は終わりなので、この容易ではない関係性がとても貴重。時にそういった「トクベツなつながり」への畏れが「アリキタリなつながり」を壊しかねない、というのも、わかる。

5月17日(日)

フランス語を勉強する。ちなみに早々にDuolingoが続かなくなっている。テキストは順調。

論文のメモをパワポで作ることにする。経済学部の「修論の書き方」みたいなエッセイを読んでいたらそれがおすすめされていたので。今のところけっこういい。どこの情報が集められていないのかがわかるし、どんなに京大ノートやロルバンにメモを書き散らしても、あとからまとめるのが結構億劫なので。ワードで書いてたら確かに順番ひっくり返すの大変だしね。目的背景などはワードで清書をアップデートしつつ、その他の章はこうやって構成を作っていくのがいいのかもしれない。検討中。

スケジュールを立てたいけど、ちなみに未だに論文をベースにしたプロジェクトとして出すか論文として出すか決まっていないので先行き不透明。さらにいうとフランスに行きたいんだけど。いけるのかなあ、この夏。期待せず、希望を絶やさず、という感じで待ちます。

今日が最後の好天の日。明日から一週間雨である。もはや梅雨かな?Profite bien! ということで休憩はハンモックで『リトル・フォレスト』の春を観ることにする。風が気持ちいい。家で毎日過ごしていると、屋内だけど天気が感じられる。朝には鳥がチュンチュン鳴くことや、黒猫が夕方に窓辺を往復することや、今日はこの花が咲いたと気づくことや、お風呂の窓辺にぴたりとヤモリが張り付いてお腹を見せていること。植木屋に手入れしてもらった百日紅も、切られた枝から緑と赤の葉を生やしている。ふだんどれだけ機械的に四季を通過していたのだろう、と思う。

パリのヴァンセーヌの森から電話。あたたかそうでいいなあ、日曜日。

映画を観て寝ようと思っていたけど、思いの外時間が深いので『セックス・エデュケーション』をNetflixで観る。『愛の不時着』でもよかったな。

5月18日(月)

今日の午後から雨なので、午前中のうちにトマトに屋根を作る。ゴミぶくろで即席ハウス。いろいろ調べて、要は水を吸いすぎると実が裂果するのを防ぐ、土が実について傷むのを防ぐ、水を与えすぎないほうが実が甘くなる、とかそういうことらしいが、まだ実のないうちのトマトたちに屋根は必要なんだろうか。はて。物は試し、この長雨をどう乗り切るか、試してみる。

食われまくって根も弱ってもうだめかと思われたナスに紫の花が咲いた。

午後はずっと本を読む。桑野隆『バフチン カーニヴァル・対話・笑い』再読。やはりとても面白かった。ものづくりの話であり、小説の話であり、言語の話であり。

5月19日(火)

定例会、ゼミ。今日はカントのいう「自律的美」ってなんぞや、っていう話など。アートが教会などの壁面から離れて、複製されていく時代の「礼拝価値」「展示価値」の話が面白かった。アイドルの写真やCDが「複製」されていったとしても「礼拝」の価値は失われず、よりいっそう強化されるという意味でその二つの価値は相補的である、というのだ。逆に、「礼拝」という実体の「人気」が高まれば、もちろん写真も売れるよね、という。

夜に『ミス・アメリカーナ』を観る。芸能人と政治的見解、という観点だけでなく示唆は多い。

5月20日(水)

フランス語1時間。

マルグレイヴの本を引き続いて読んでいる。現代史は混線していて複雑で解けそうで解けない。

テラスハウスを観る。あと2回でとりあえずまた長らく休止に入ることだけはわかっている。テラスハウスを「どう観るか」を共有できる人とは仲良くできるのでその点では有意義なのは変わりないけど、やっぱり最近のテラハはバランスが崩れてきているように思える。全時代的で、レイプの一歩手前みたいな「反面教師」だけ提供されていても薄気味悪い。テラハが薄気味悪いというよりもはや、まだこういう人がザラにいる社会ですよ、というのが惜しげも無く開示されている感じが頭をかかえる。

『帰ってきたヒトラー』を観ながら寝てしまった。あまり何も成し遂げない1日であった。

5月21日(木)

マルグレイヴの『現代建築理論序説』読了!ドゥルーズ、ミニマリズム、現象学から環境へなんとなく領域が移行していく。これでだいぶ2020年との接続が把握できた気がするけど、ほんとうに、最近は何を読んでも何を見ても「このあとコロナがくるんですけど...」という気持ちになる。

フランス語を1時間弱。受動態のターン!これで29日目の学習。えらいな。

最近キムタクが海外でバズりはじめているらしい。あとは留学生に給付金をあげたくない日本と、黒川さんの賭博麻雀報道。いつか読み返した時に、また呆れ返るかもしれないけど、今日の日に何があったか書き記しておくことにした。我が家では麻雀にはみかんか布団畳む担当しか賭けたことないよ。

カメラの現像を出しに近くの電気屋まで散歩。なぜかカメラケースを手に入れて帰ってくる。普段の倍くらい店員さんがいてびっくりした。世界で自粛をしているのはわたしだけなのでは、みたいなSFを感じる。




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