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いま ここにいる事を抱えて


 北極の氷山が解けて崩れ落ちたニュースを見て君は、クーラーの効いた12平米の居間の中央、深夜放送を垂れ流したテレビの前でぽつり悲しそうに呟いた。

「目をつむったらお終いね。どうしようも無いなんて嘘ばっかり」


 電子の光が暗い部屋の壁を伝って反射する。閉めきったカーテンと冷蔵庫の稼働音が鳴り続く中、ただじっと春を待つ幼虫のように背中を丸めて座る。

そういえば、いつだかそんな姿を年寄りだと抽象した時があった。

 ずっと憧れていた。達観した老人になることを夢見て言ったことだ。海底を見渡す深い目と、古い樹木の匂いがする指と、そして純真な子どもの顔と身体。思えば幼さと老いを重ねて同時に得ようとした無鉄砲さは模範的で健康な若者だった。

 洗面台の鏡で互いに顔を見合わせたことを覚えている。何でも出来るような気がしていたし全て知っていけるような気もしていた。手元にあるスイッチを押せば体を起点にして世界が変わって見えるとさえ。玄関で、キッチンで、ベッドの上で、浴槽で、窓辺で、手を伸ばせば届く位置にある何気ない物を讃えて、それらは所謂つつがなく叶うものだと。

 実際のところはどうだったか。音が収縮する狭い部屋で考える。全貌の見えないありふれ過ぎた結果を知るにも、ただ受け入れるだけの器は持ち合わせてはおらず、同じ映像を繰り返し流す旧型のデッキは白々しいままに薄い布と鼻の先を通り越していく。終始それを眺める僕はぐるぐると飛んで足元に落ちていく虫を気付かない振りで捨て置き続けた。一面に転がる、その場しのぎでこしらえた昨日の食べこぼしと現在の塵あくたが絨毯の隙間に紛れ込んで一緒になり、明日になれば、かさついた裸足で踏み貫いていく。

知らずにいる事とは、得てした事だった。

君が生まれ、君が育ち、君が過ごして、君が見たこと。

君の目の前で、僕の知らないところで、行われる。

僕の目の前で、君の知らないところで、忘れていく。

大丈夫、すべてつつがなく。


 深夜放送の画面が切り替わって馴染みある街中の映像が流れ始めた。
君はひと息吐いたその口で、

「部屋は過ごしやすくあれば良いんだから」と言う。

ピ、とリモコンの音を鳴らし、数回の瞬きのあとに目を細めて笑った。


それが今ここで起きた出来事のすべて。

どうしようも無いほどのすべてだ。




(Cookin’Garden)

/いいば


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