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一回忌が終わった

産まれた瞬間から無数の言葉を浴びている。そのすべてが祝福にも呪いにもなる。
子どもたちのたくましい成長に感激する一方で、「俺もこうやって傷つけられてきたのか」とひとり納得していた。俺だけじゃない。彼に語りかける大人たちも、傷つけられた子どもの姿をみんな持っている。そんなことを考えていると、家族という単位が重なりひしめき合っている光景に目眩がしてしまう。

姉の一回忌。
いとこ姉妹にも子どもが産まれて、とてもにぎやかなお墓参りだった。小雨が降るなかで、線香に火をつけるのに手間取った。雨がっぱを着た子どもらが俺の足元を走りまわる。生きている人ばっかりで、ゆっくり手を合わせる時間もない。俺の目眩は加速した。そんな居心地の悪さをごまかすために発泡酒を二杯飲んだ。酔いがまわった頃にようやく、自分もこの光景の一部なのだと感じられた。
言葉を覚え始めたばかりの子どもたち。その視界に俺の姿が入り込む。「こんにちは」と言われれば「こんにちは」と返すけれど、それ以上のことはする気になれなかった。それ以上のことはそれぞれの家庭で充分に与えられているはずだ。だとしたら、『よくわからない人間がいる』と、彼らに不思議がられることが俺の役割かもしれない。そう自分に言い聞かせた。
そして、目眩のなかであらためて思う。子どもを中心に世界がまわる必要はないと。彼らは勝手に自分を中心にして世界をまわしていることだろう。手入れする人間がいなくなった実家の葡萄は、例年にも増してたくさんの実をつけていた。

それにしても疲れた。
葬儀のなにが重要かって、拘束時間の長さや親戚づきあいのめんどくささなのかもしれない。お通夜、告別式、四十九日、一回忌、三回忌。そのたびに早起きして支度して、親戚と会って会話に困って、目眩がして、飲みたくもない発泡酒飲んで気持ち悪くなって、そうこうしてるうちに喪に服すのにも飽きてきて、「もういいよ」と心から思う。それも回復のひとつのかたちなのかもしれない。

一回忌が終わった。
ぐったり疲れた俺は、帰宅すると同時に床に倒れ込んだ。こんな日は年に一回で十分。もういいよ、と心から思った。

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