ディスペンセーション神学の問題点とクリスチャン・シオニズム批判 終末論を声高に叫ぶ人の分析
キリスト教徒でも神学はちょっとという人がいる。
神学をやると本当の信仰から離れるという人もいる。要するに頭でっかちになると言うのだ。私はこれについて一理あるとしても、全体としては非常に懐疑的立場に立つのであるが、保守派の愚かな人の間ではまことしやかに語られている。
キリスト教徒でもそうなのだから、一般の人は神学など分からないだろう。興味もないだろう。神学論争と言えば不毛な議論の代表格として語られているものである。確かに、普通に生活していて偽ディオニュシウス・アレオパギタの否定神学とか、ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性とか、仮現論とか様体論とかマルキオン反駁とか、そんな言葉は使わないし必要ないだろう。
だが、そういう知識は別として一つ知っておいて欲しい言葉がある。それがディスペンセーション神学、又はディスペンセーション主義という言葉である。日本語にすると契約時期分割主義とか、天啓史観、経綸主義と呼ばれる。
歴史的に見ると、この教えは非常に新しい。キリスト教に2000年以上の歴史があるのに対して、ディスペンセーション神学は19世紀のイギリスが発祥とされる。エドワード・アーヴィングがイエズス会士マヌエル・ラクンザの解釈を吸収し、著作した。この解釈がプリマス・ブレザレンの人達に受け入れられジョン・ネルスン・ダービーによって推進されたのである。
ディスペンセーション神学とは何か。端的に結論から言うと、艱難前携挙説という「世界の終わりの前に敬虔なクリスチャンは天に挙げられて救われ災いを避けられるという教え」と、聖書に預言された救いを分割して時期毎に異なると主張するものである。
詳細は割愛するが、ディスペンセーションは救いの形を七つの時期に分割して説明する。今は、恵みの時期だと言う。この後に艱難が来て再臨が起こるとされている。
この聖書解釈の何が問題なのかと言うと、それはクリスチャンシオニズムと結びついている事である。クリスチャンシオニズムとは、神がアブラハムに与えた契約に基づいてエルサレムをアブラハムの子孫に永久の所有として与えられているものとする。キリスト教の教理と言われるが、全ての教会がこれを採用している訳ではなく、教理ではなく厳密には教義(教団の作った決まり)である。その証拠にカトリックはこれを採用していないし、正教会も恐らく懐疑的に見ている。プロテスタント福音派で盛んな教えである。
察しの良い人ならば私の言いたい事がもう分かったと思う。
イスラエルとパレスチナの戦争について私は語ろうとしているのである。
イスラエルは、こういう聖書の記述を根拠としてエルサレムの所有を主張している。それに対して、パレスチナはユダヤ人が離散、ディアスポラした後に住んでいたのだから問題ないだろうという訳だ。
普通に考えれば…敢えて言うと、通常の、宗教に毒されていない一般的な思考からすれば、ユダヤ人が出て行った土地に後から住んでいた人を、そこは私が神から永久に与えられた土地だから出て行けというのは狂気の沙汰であり、侵略そのものである。この点でイスラエルはおかしい。
イスラエルが建国されたのは1948年だが、この建国にあたってイギリスが色々と適当な事を言ったのだという説がある。ユダヤ人にも、イスラム系の人々にもそれぞれに所有権を認めるような約束をしたと言われている。そして、こじれにこじれて、今、こうなっている。
どう考えても、イスラエルの言っている事はめちゃくちゃなのだが、キリスト教徒の中でも特にアメリカの福音派に代表されるような人々は聖書の記述を無謬で神から与えられたものであると見做す為に、イスラエルを支持している。私はこれを軽蔑の意味を込めてクリスチャンシオニズムと呼び、イエスの教えである(筈の)キリスト教とは区別している。ディスペンセーション神学を初代教会の人々が信仰していた証拠は全くない。ディスペンセーション主義とクリスチャンシオニズムは聖書に付与された余計な言葉である。保守派、福音派(の一部)は聖書無謬説を唱えるのに、こういう無用な言葉を付け加えるのに忙しい。その癖に神学を批判するからお笑いである。
ディスペンセーション神学もクリスチャンシオニズムも、聖書の教えとは無関係だと私は考えている。私はこれを新しい種類のカルト、又、キリスト教における最悪の種類の異端、邪悪な間違った教えであると認識している。
異端と言うと、異端審問とか魔女狩りとかの悪いイメージがあって、根拠なく教えを否定する悪の様に語られるが、それは違うと私は思う。異端と言う語はギリシャ語で分派を意味する言葉から派生した。聖書には分派を作るなという教えがある。異端とは、正統な教えから外れた自分達こそが正しいと主張する別の組織の事である。私は間違った教えを批判する事は必要な事だと思っている。間違った教えが、人を死に至らしめるなら尚更だ。
ユダヤ人はパレスチナの人々を殺害している。もちろん、今回の最近の出来事だけを見ればハマスのテロが発端だが、イスラエルの首相のネタニヤフはかつてハマスを支援していたのである。詳しくはジャーナリストの記事を見て欲しいが、イスラエルの右派はパレスチナが地上から消える事を望んでいるのである。その為に、パレスチナとイスラエルがそれぞれ共存するような話をつぶす必要があった。そこで、ネタニヤフはハマスを利用したのである。今回の事件は、ある意味ではネタニヤフの責任である。
そもそも旧約聖書には聖絶という言葉が出てくる。これは異民族を根絶やしにする事である。異民族は、邪悪な風習を持っていたとされる。例えば、子供を生け贄にしていたとか。又、今の感覚からすると意味が分からないかも知れないが、偶像崇拝をして姦淫の罪を犯していたという。そこでユダヤの神であるヤハウェは、カナン周辺に住んでいた民族を抹殺する事を命じた。ユダヤ人の感覚は、こういう旧約聖書の記述に直結しているかも知れない。特に宗教右派は。
しかし、これは現代の感覚からすれば侵略であり、悪である。又、少なくとも、この時代には敵を殺す正当な大義として異民族が邪悪な風習をしていたという事が挙げられる訳だが、今はどうか。イスラム教徒はアッラーを崇拝している。これは偶像崇拝なのだろうか。ユダヤ人からすればそうなのだろうが、イスラム教徒は子供を生け贄になどしていない。
ユダヤ人は自分を神に従う光の勢力と思っているかも知れない。(ユダヤ人にも色々な人がいて、パレスチナを擁護する人も大勢いるが)実際、ネタニヤフがそういう演説をしていた。だが、イスラムの人々は闇の悪魔ではない。むしろ、ユダヤ人こそが、悪であると私は思う。かつてのユダヤの宗教指導者達、パリサイ人はイエスに「ゲヘナの子」と呼ばれたのだが、どちらかと言えば、今のイスラエル(の右派)はこちらに似ている。
敵を愛せはどこにいったのか。
イエスはユダヤ人に殺害された。何故、キリスト教徒はイスラエルを支援するのだろうか。それはきっと、かつてドイツでユダヤ人が迫害され殺害された事に対する同情心もあるだろう。ナチスを支持していたキリスト教徒もいたという。ナチスのホロコーストと言えば、世界的な暴挙で絶対悪のように語られる。実際、ナチスは悪であったと私も思う。ユダヤ人はこの時、被害者だった。しかし、今はユダヤ人はパレスチナの人を殺害している。今のイスラエルはどちらかと言えばナチスドイツに似ているのではないか。イエスはユダヤ人の宗教的指導者を痛烈に批判した。そのせいで反逆者としてローマ帝国に訴えられ十字架につけられて殺された。だが、イエスは最後まで手向かわなかった。今のユダヤ人は、この時のパリサイ人達に似ている。
イスラエル、エルサレムの土地に拘らなくても、神に祈る事はできる。神は全能であり、遍在しているからだ。
物理的イスラエルの建国に拘った日本人がいる。ホーリネス教団の中田重治である。中田重治はディスペンセーション神学とクリスチャンシオニズムの熱烈な支持者だった。彼は1948年にイスラエルが建国された時、世の終わりが来ると主張し、信者の中には仕事を辞めて祈りに専念する者も多くいたという。後に日ユ同祖論等の現在はトンデモとして知られる説を唱えて、教団は分裂するが、それまでは大きな力を持っていた人物だ。
もちろん、今、こうしてあなたが画面を見ているように世の終わりは来ていない。来なかった。中田重治は間違っていた。強い言葉で言えば、中田は偽物の預言者だった。
今のエルサレム情勢を見て、エゼキエル戦争という世の終わりに起こると言われている戦争がまもなく起こると主張する愚昧なキリスト教徒アカウントがSNSでは散見される。しかし、今起こっている事は、どちらかと言えば、ホーリネスの間違った預言の焼き直しに似ている。
そもそも世の終わりがこの程度の訳がない。
今の世の中で生き辛いか?そういう人もいるだろう。しかし私は快適である。200年前、100年前よりも暮らしやすくなっているように私は思う。統計学でも、世界的に飢餓や病気が減っている事が確かめられている。(キリスト教徒には反ワクチンのワクチンにより人口削減を謀っているとか言う愚かな人が多いので、こうした現実認識が狂っている可能性は高いが)
世の終わりには、破滅を招く666と呼ばれる獣が現れるという。しかし、私にはそんな存在は見当たらない。カトリックの教皇がそうだとか、国連の代表だとか、色々言われているが私はそうは思わない。そもそも邪悪な世界帝国が陰謀によって世界を支配しているなら、私はもうとっくに死んでいるだろう。キリスト教徒がインターネットでわいわい言っている事が、陰謀がないか、全然「的外れ」な証拠である。
キリスト教では罪は的外れだと説明される事があるが、まさに今の陰謀論界隈こそが的外れである。
陰謀論に嵌まりやすい人がいるという。最近の日本の研究によると「熟慮性が低い人」と「世界は悪くなっていると考える価値観が強い人」程、陰謀論に嵌まるのだという。確かに、キリスト教徒は弱者を包摂する。遠慮なく言わせて貰えば、愚かな人が大勢いる。これは学歴とか関係なく、自分が頭が良いと思い上がっている実際は愚かな人物が多いという意味である。収税人のように胸に手を当てて悔い改めの祈りを捧げるべきである。こういう人達はイエスを十字架につけて殺したパリサイ人に似ている。統計が読めず、実際の情勢を見誤り、世界が悪くなっていると考え、自分の行動を見直さず、世の中が悪いと主張するどうしようもない人が大勢いる。
確かに世の中のせいにするのは楽である。聖書にもそう書かれている。世は悪魔が支配していて悪いのだと。しかし、かつてのキリスト教徒達は、不平不満を言っていただろうか。そういう世の中でも懸命に働いて金を稼ぎ、自分で食べ物を得て、人を助けようとしていた。今のクリスチャンは初代教会に比べてどうだろうか。
終末論を声高に叫ぶタイプの人がいる。世界が終わってくれれば良いと馬鹿な事を言う哲学者もいる。しかし、そんなのは間違いである。終わる時はあなた方と無関係に終わるし、今はその時ではない。
神は何と言ったか。聖書にはこう書かれている。
"イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。
すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」
そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。
また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。
そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。
不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。
しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。
それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──
ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。
屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。
畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。
それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。
あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。
そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。
もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。
そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。
偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。
いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。
ですから、たとえだれかが『見よ、キリストは荒野にいる』と言っても、出て行ってはいけません。『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはいけません。
人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。
死体のあるところには、禿鷹が集まります。
そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。
いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。
同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。
まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。
天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。
洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。
洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。
そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。
女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。
ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。
次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。
ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。
それでは、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。
主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。
まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。
しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、
仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、
そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、
彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。"
マタイの福音書 24章 1〜51節
"そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。
そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。
賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。
花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。
ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。
愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』
しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』
そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。
その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。
しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』
ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。
天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。
すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』
主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』
主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。
それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』
しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。
それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。
だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。
この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』
人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、
わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」"
マタイの福音書 25章 1〜46節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行
偽の預言を信じる人々は聖書を読んでいない。
鏡を見てみると良い。
あなた方は今、イエス・キリストを殺害した人々に似ている。
我々は皆、元は神に敵対していた。
しかし、今も尚、「自分の作り上げた神」を拝んで、弱者を虐げている者がいる。
"私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。
また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。
これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。"
ヨハネの黙示録 22章 18〜21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?