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パジェロの魂は死なず (そして、S君に捧ぐ) 【non fiction】


★本稿はX(Twitter)でのラリーファンの皆さんの熱意に後押しされて初めて明かしたエピソードを、note用に再構成したものです。


三菱自動車で共にモータースポーツに励んだ「戦友」が2022年から、東南アジアで開催されているAXCR(アジアクロスカントリーラリー)に参戦している。出場車両は三菱自動車がタイ工場で生産しているパジェロスポーツだ。
この車両は、2014年に三菱チームのアウトランダーPHEV (当時の状況で、電動車の開発目的でのみモータースポーツが認められた)のサポートカーを改修して使用している。

サポートカーとは思えぬ走り (AXCR 2014)


パジェロスポーツのドライバーである戦友も長く三菱自動車の仕事をしてきた人物であり、モータースポーツの実績も十分すぎるぐらいにある。 三菱車での出場となれば当然、車体には三菱のモータースポーツのシンボル「RALLIART」のロゴを入れたい。彼も私もそうしてきたのだから、当然と言えば当然だ。
出場が決定した2022年、三菱自動車もラリーアートの実戦復帰をAXCRに選んできた。 少しでも三菱のモータースポーツ復活の援護となるよう、私は一計を案じた。


(筆者が2021年にメディアのインタビューで語った予想は、ほとんどが的中した)


現在のラリーアートは三菱自動車自身のモータースポーツビジネスのための存在だ。かつてWRC(世界ラリー選手権)やパリ・ダカールラリーで隆盛を誇った時代のようにユーザー、プライベーターの支援まではまだ視野に入れられる状況にはない。
従って我々の思いだけでRALLIARTのステッカーを貼って、三菱自動車のビジネス上のノイズとならないよう細心の注意を払う必要がある。 私は三菱自動車の広報部にコンタクトする。プレスマンとしてではなく、純粋に三菱自動車OBとして。

ドライバーも私も、かつてラリーアートと共に戦ったという「誇り」がある。我々だけではない三菱のモータースポーツ復帰を待ち望んできた者たちの思いを乗せて走るパジェロスポーツには、RALLIARTのロゴを表示したいと申し入れた。 もちろん広報が断ることはないと踏んでだ(ズル賢いほどに)。なぜなら広報には我々の盟友・増岡浩(2002、2003パリダカ連覇)が業務遂行の責任者の一人として在籍している。
もちろん三菱自動車は広報部として我々のプロフィールや実績をもとに車体へのRALLIARTロゴの表示を快諾してくれた。 驚くべきはここからだ。初めて明かす裏話になる。

三菱自動車の広報部からは

『本件は社内で共有します。ラリーアートビジネス推進室、車両開発部門と現地チームでも』

と望外の申し出だった。そして現役、OB、販売会社などからの応援メッセージが届く。初代パジェロのデザイン作業に従事したOB、現役第一線の技術者や販売会社の営業マンたちから、続々と。

タイでカラーリング作業のパジェロスポーツ


2022年のAXCRは三菱トライトンが実戦復帰初戦にして優勝する。ラリーは例年の雨季を外して11月に開催されたが、ゴール直前に容易には走破が困難な泥濘地が現れ多数のラリーカーがスタックしてしまう。
そんな中、パジェロスポーツは巧みなドライビングで泥に捕らえられることなく上位フィニッシュした。総合13位、三菱車ではラリーアートのトライトン2台に次ぐ三番手。ベトナム三菱の支援を受けたトライトンよりも上位だった。
三菱ブランドの強い地域柄から三菱車でのの出場チームは他にもあったが、RALLIARTを表示したプライベーターはパジェロスポーツのみ。 決して表でアナウンスされることはなかったが、我々は世界で最初に新生ラリーアートから認められたチームになったと言える。

三菱自動車の公式モータースポーツサイトでは復帰戦から優勝を狙って臨んだ(そうとは言わなかったが)トライトンのプロモーションが優先であるから、我らがパジェロスポーツの活躍には触れられることはなかった(「状況次第では」という話はあった)。しかし、小さな奇跡が起きていた。
三菱自動車本社ショールーム責任者がワークストライトンのリザルトだけでなく、パジェロスポーツのポジションを毎日ショールームに掲示してくれたのだ。 彼女もまた、新人時代に宣伝部で、かつてのラリーアートを設立当初から見てきたリアルタイマーの一人、戦友だ。

勇姿を見届けに、現地に飛んだ戦友もいた!


パジェロスポーツ無事のフィニッシュを聞いたとき、私は一人の後輩「Sくん」のことを思い出していた。 三菱自動車でパジェロスポーツを担当し、技術センターのある岡崎市と東京の本社を頻繁に行き来しパジェロスポーツの販売エリア(当然海外)も飛び回っていた。

彼は言っていた。

『パジェロスポーツ、日本でも売りたいなあ』

職種や勤務地が違えば先輩後輩の関係も希薄になりがちな規模の会社にもかかわらず「先輩先輩」と私を立ててくれた。
三菱自動車が苦しい状況にあっても『増岡さんがいてくれるから、会社は辞めませんよ』と頑張っていたが、残念ながら彼は私より先に天へと旅立ってしまった・・・
だが彼が愛したパジェロスポーツが我々の手で、増岡浩の率いるラリーアートと共にアジアの大地を駆け抜けたことを、きっと喜んでくれていたと思う。(了)

https://x.com/hiko1963/status/1764614833163669558?s=20


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1981年のTeam RALLIARTの設立から90年代の全盛期、景気悪化によるモータースポーツ事業の終了から時を経ての復活宣言までを、著者の体験と関係者の証言で綴った三菱自動車のモータースポーツ「ラリーアート」の正史


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