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私の落選作品 その4(2000年 新潮新人賞 応募作品『那智の瀧』)2

2.
 いったい瀧が神であるとはどういうことなのか。杉などの原生林の密生が秘境を思わせるたたずまいの中、私は心に密かに期するものを持しつつ、石段のやや長い参道を下って行った。もっとも、先刻上ってきた熊野古道大門坂の閑寂とは異なり、瀧前までバスで来たと思しき団体と同道することになったが。夏本番を控えた木々の緑は鬱蒼として力強く、落ちかかる瀧の音は葉擦れの音を凌駕しつつ しだいに高鳴っていった。やがて杉の枝々越しに、「ひとすじ」などという形容を打ち砕くほど峻烈な瀧が、その相貌を現した。私はできれば静謐な中での対面をと願い、一行を先に遣り過ごしてから、瀧前の広場へと下りていった。
 この瀧の前にどれだけの数の人が佇立したことだろう。日本人のみならず外国人も。それこそ歴史的な史料が編纂される以前の古代から、人々はこの瀧を仰ぎ見てきたのだ。かの団体も感嘆の声を発しつつ、瀧の前でポーズを取り、代わるがわる記念写真に納まっていた。私は撮影の邪魔にならないように、少し離れて後方から瀧を仰いだ。
 断崖百三十三メートルの高みより落ち下るこの那智の大瀧は、飛瀧神社と称され、那智の奥山に懸かるいくつもの滝を背後に控える。南に面しており、熊野灘の海上からも遠望できるという。昨日まで断続的に降り続いていた雨で、水量はことのほか多いようだった。尋常ならざるたたずまいをもって、この神の瀧は私を迎えてくれた。瀧の水は落ちゆきながら岩盤を穿ち、無類に迫真的な水による彫刻を刻一刻と岩肌に形作っていた。この瀧により彫琢された山肌は、指と指を合わせて合掌する手の連なりにも見え、あるいは質朴な円空仏とも、さらにはトーテミズムによる彫像にも擬せられ得る造形であった。私はしばし審美的に嘆賞しつつ、一連の記念撮影が終わるのを待った。
 あえて付言すると、この瀧の前で記念写真を撮るだけで帰ってゆく人たちを難じるたぐいの気持ちは、私とは相容れぬものである。むかし、一遍上人は一念往生を説いた。南無阿弥陀仏と一遍唱えるだけで、すぐその場で極楽に往生すると説いたのである。一遍はのちに「南無阿弥陀仏」と書かれた札を配って諸国を遊行するのだが、その信仰の核心に、自分の念仏勧進の努力ではなく、「南無阿弥陀仏」という名号にこそ、仏の智慧と働きが凝縮されているという悟りがあった。熊野は、一遍にその悟りをもたらした所縁の地でもある。もし一遍が今 在せば、おそらく瀧の前での記念写真を咎め立てはすまいだろう。瀧を前にして笑顔でポーズをとる人たちを見守りながら、一遍の唱えた一念往生に思いを馳せた。むろん、両者は質において異なるものであるが、通底する念の一回性という観点に思い及んだのだ。そしてそれが仏の喜ばれるものならば、一遍も排除はしないだろうと察したのである。
 瀧から少し距離を置いて対面しながら、どんな美術史上の作品にも勝るその絶えざる造形表現の更新に魅了されていた。根津美術館所蔵の国宝・那智瀧図は、室町時代より盛んになる水墨山水画の系譜以前に描かれた風景画として貴重なものである。秋景の中を落ちゆく瀧は、画面の中央に明確な線で直線的に描写され、瀧の水の白い彩色がその神像としての風韻を際立たせている。その力強い描写には、この絵が描かれた時代すなわち法然・親鸞・日蓮等が一念をもって仏教を革新した鎌倉時代という武士の世の精神が、確かに息づいている。そして眼前の瀧は、そのような思議をも超越してそこに存在していた。
 私は瀧の前に近づいて行った。香木が焚かれている護摩を過ぎ、飛瀧神社の鳥居の真下に立つ。柵を隔てた先に、お瀧の磐境がある。それは、神道に由来する石を土台とした目印で、この瀧を神と仰ぐことを表徴するものである。その十数メートル前方を、左手上方より右手下方へと、瀧壺より溢れ出た水が新たに流れてゆく。水は、ごつごつと転がる大きな岩石の集積の間を、縫いながら流れ下ってゆくのだ。そしてその瀧壺に向かって、轟音を響き渡らせて、尽きざる水の大群が次々と殺到してゆく。はるか上方の瀧口より、粉塵のごとき飛沫を撒き散らしながら、あるものは躍り上がり、あるものは岩肌にかじりつきつつ迸り落ちてゆく。私は瀧壺に目を凝らした。しかし瀧は、私の凝視を咎めるように、しぶきの噴煙をこちらに繰り出してきた。やはり生きておられるのだ、というある種の悟得が私を打った。
 鳥居の下を辞し、瀧前の広場の隅のベンチに腰を掛けて小休止した。団体旅行の一行はすでに引き返したようだが、週末とあって近傍から自家用車で訪れたと思われる家族連れが後から到着し、観光地としての賑わいを見せていた。続々と人が訪れ、仰ぎ、写真を撮り、会話を交わし、そして去ってゆく。人は瀧に近づくとしだいに無口になる。遠くに認めていた時は、「すごい」というもっとも陳腐な形容や、「うわあ」という感嘆の声をもって応ずるが、間近に佇んだときは一切の贅言が封じられ、かえって言葉の無力を思い知らされる。
 毎年七月十四日には、この地で那智の火祭が執り行われる。その日には各地より多くの人が参集するのであろう。今はその準備が怠りなくなされているに違いなかった。木、水、大気、そして土と、この熊野の地は命の息吹が充溢している。ただ一点、この梅雨空の下では、太陽の光も含めた火の力が不足していた。ちょうど梅雨明けの頃に行われる火祭は、あるいは火の力を迎え入れる儀式なのかもしれない。
 那智の火祭は、遠く仁徳天皇の御代に新たに社殿を造営した折、祀られている神々を新社殿に神輿でお移しになったという伝承に由来する。先ほど訪れた熊野那智大社とこの別宮である飛瀧神社との間を古の神事に倣って神輿が渡御するのだ。まず熊野那智大社で舞が奉ぜられたあと、扇で飾られた丈の高い扇神輿が飛瀧神社へと進む。一方、この瀧のもとで使いの松に点ぜられた火は、大松明に移される。燃えさかる大松明は参道の石段を清めながら、本社より降りてくる神輿を出迎える。そして瀧前で扇神輿に御霊が移されて後、再び神輿は本社に還御するのである。大松明の燃えさかる火が扇神輿を出迎えて、参道の石段を上り下りしつつ清める時、祭は多くの人々の熱気とともに高潮に達するという。あるいは二つの大いなる力の出会を、人はそこに見出すのだろうか。この神輿と松明との交歓の儀式は、また秩序付けられた古格と野性との合流を暗喩として秘匿しているのかもしれない。あと十日あまりで、この場は厳かな中にも昂揚した祭祀のにわに改まるのである。

(続く)



 

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