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「ピヨの恩返し」の解釈 『ピヨの恩返し』

2015年に書いた文章が、Facebookに出てきましたので、こちらに載せてみたいと思います。当時「みんなのうた」で偶然耳にして、そのアクロバティックな展開に度肝を抜かれた楽曲です。そして岩男潤子さんの歌声と演技がとても可愛らしくて癒されるので、ぜひ聴いてみてください。

谷山浩子版

岩男潤子版

「ピヨの恩返し」の解釈

1節:目的

 本稿は、谷山浩子2015「ピヨの恩返し」に対する新たな解釈を提示するものである。「ピヨの恩返し」(以下「当曲」)は、結婚生活50年の節目に自らの出自を[わたし]が、就寝中の[あなた]に語るという構成になっており、最終部分で[わたし]が今まで語った内容を「嘘ですよ」と覆すことが最も大きな特徴となっている。

 解釈の可能性として、それ以前の語りを真と前提するものと、最終部分を真とするものとに分けられよう。最終部分の主張はそれ以前が偽であるとするものだ。ゆえにどの部分を真とするかによって、自動的に他部の真偽は決定される。

 本稿では、最終部分以前の語りを真とする読みをおこなう。この前提に立ったときのみ、言説全体に統一的な解釈が与えられ、もっとも高い純度で鑑賞経験を高められると考える。以下では、それ以外の前提に立ったときに生じる不整合を見たのち、よりよいと思われる前提に立った解釈を提示したい。

歌詞

凡例

「よくお休みのところ たいへん失礼しました
今まで話したことは 全部嘘ですよ
ヒヨコが人になるなんて
そんなわけないです そうですよ
見えますか 窓の外 月がきれいです」

谷山浩子. ピヨの恩返し. J.Island, 2015

以上を「撤回部」と呼称し、それ以前の全部分を「告白部」と呼称する。
[わたし]によって当曲が語られた事実を「言表」と呼称する。
登場人物を[括弧]で表記。

2節:〜撤回部を真とし、伴って告白部を偽とする解釈の不整合性を提示する〜

 この解釈の前提として、以下の二点が挙げられる。

  1. [わたし]は[ピヨ]ではない(撤回部を真とする条件)

  2. [わたし]は[ピヨ]のことを知っている(これを前提しないと[わたし]が告白部を語りえない)

 これら前提のもとでは、撤回部で覆るにせよひとまずは「[わたし]がじつは[ピヨ]だった」という偽の主張を[わたし]が行っていることになる。こういった偽の主張はどんなはたらきをするのだろうか。

 第一の仮説は「[あなた]を安心させるはたらき」。つまり、五十年間行方を気にしていた[ピヨ]が、実はこうして生きていたと[あなた]に示すはたらきである。この仮説は端的に成立しない。五十年目に告白する理由がないことに加え、撤回部でその働きは失われてしまう。

 第二の仮説は「五十年間が本当の愛であったと[あなた]に示すため」。これには一定の説得力がある。
告白部において語られる[あなた]への感謝(「お薬ぬってくださって〜中略〜ありがとございます」)が事実であるとすれば、結婚後の五十年間(「家族のために 料理 そうじ せんたく 五十年」)は、感謝に基づく恩返しという意味づけをされてしまう。
そこに撤回部が加わることより、[わたし]は自らの五十年を、感謝に対する恩返しではなく、無償の[あなた]への愛ゆえなのだと示しているのではないだろうか。
残念ながらこの説も成立しない。
前提に立ち返れば、事実として[わたし]が[ピヨ]でないことに加え、[あなた]は五十年後に話題とされて[ピヨ]失踪事件をすぐに思い出せる(と[わたし]は考えていた)ほど、切実に思っていたのである。
この事実を利用して[わたし]が自らの愛の証明をするという事態は、高められた鑑賞経験とはいえない。
この仮説に立つと、多くの観者にとっての[わたし]像は、無事かどうかもわからない[ピヨ]とそれを気に病む[あなた]という事実の上に立ち、自らの愛を語るという、あまり倫理的でないものとなってしまうだろう。

 くわえて、このどちらの仮説も弱める事実がある。それは、[わたし]はそもそも[あなた]に聞かせようとして、言表全体を行っていないことだ。そのことは告白部「いえ、 そのまま 寝たまま どうぞそのままで〜中略〜目を覚まさず寝たまま 聞いてくださいね」という言葉に現れている。[わたし]が言表全体を[あなた]に届けようとしていない以上、それを前提とするどちらの仮説も成り立たない。

3節:〜告白部を真とし、伴って撤回部を偽とする解釈の整合性〜

 この解釈の前提は以下のとおりである。

  1. [わたし]は[ピヨ]である(であった)。

  2. [わたし]は言表全体を(普通の意味で)[あなた]に聞いてもらおうとはしていない。

 この前提に立って以下議論を進める。

 まず[わたし]にとって、[あなた]の存在は2通りの捉え方がある。ひとつは「命助けてくださって ありがとございます」という感謝の対象として。
そしてもうひとつは「あなたに恋をして つらくて〜中略〜家を出た」という恋心の対象として。
そしてその2通りの区別は「ともに過ごした〜中略〜五十年」にも同様に当てはまる。
すなわち感謝の結実として(恩返しとして)の「五十年」と、
恋心の結実としての「五十年」である。

 言表全体が行われる以前に、事実としては「会ってすぐに惹かれあって 恋人から夫婦になって ともに過ごした」、「家族のために 料理 そうじ せんたく」の「五十年」が横たわっている。このことは言表中にもあるように「あなたに恋をして つらくて〜中略〜黙って家を出た」ことに始まる恋心のなせる技といえよう。すなわち言表全体が行われるまで、[わたし]は「五十年」を、恋心の結実としてとらえていたと考えられる。

 [ピヨ]であることを「今まで言えなかった」[わたし]にとって、「五十年」は恋心の結実としての意味を持ってきた。逆にいえば、「五十年」を単なるお返し(「恩返し」)ではなく、恋心の結実とするために、[わたし]は「あの日 雨の夜に あなたに助けられた」[ピヨ]であった事実を「五十年」間「今まで言えなかった」のではないだろうか。

 そして前提に立ち返ると、この言説全体は、現実にいる[あなた]に向けられたものではない。すなわち「今まで言えなかった」の意味は、「[あなた]に教えられなかった」ではなく、「([ピヨ]であった事実を)[わたし]が認められなかった」と読まれるべきだろう。

 しかし、事実はそれを認めるにせよ認めないにせよ存在する。[あなた]は確かに[ピヨ]だったのである。そしてその事実を完全に忘れることなどできないだろう。

 そして[ピヨ]であった以上、感謝の対象としての[あなた]の存在を認めぬまま(「恩返し」をできたという事実を認めぬまま)、一生を終えるわけにはいかない。

 ここで、感謝の対象としての「五十年」と、恋心の対象としての「五十年」が両立し得ないことを指摘しなければならない。「五十年」を恋心の結実と捉えるなら、[あなた]への感謝という事実は、[あなた]への恋心に、お返しという余計な意味を付け加えることになってしまう。

 [わたし]は「五十年」に対する二つの意味づけ(感謝の結実と恋心の結実)の狭間で葛藤してきたに違いない。そして、この葛藤こそが、当曲に告白部と撤回部という構造をあたえ、すなわち[わたし]にこのような構造の言表をさせた、本当の原因なのではないだろうか。

 告白部において、[わたし]は自らが[ピヨ]であると宣言している(「ヒヨコのピヨです わたし」)。
同時に「あの日 雨の夜に あなたに助けられた」と[あなた]が感謝の対象であることも認めている。
この作業は、[わたし]を助けてくれた[あなた]に対し「恩返し」を存在させるために(「五十年」を恩返しにできるために)必要不可欠な事態である。
そして、この告白部だけでは「恩返し」のもとに隠れてしまう純粋な恋心を、撤回部は見事に掬いあげる。
告白部で[わたし]は確かに[ピヨ]であったことを認め、伴って「恩返し」の事実は成立した。その上で、「今まで話したことは 全部嘘ですよ」と[わたし]は[ピヨ]であることを否認する。これはすなわち、「恩返し」という完了した事実をのこしたまま、[あなた]が恋心の結実である存在に戻ることになる。

 厳然たる「かつで[ピヨ]であった」という事実に対して、[わたし]はそれを認めたり認めなかったりすることによって、見事に恩返しと恋の並立に成功したといえよう。その締めくくりとして「見えますか 窓の外 月がきれいです」のひとことがある。「I love you」の訳として知られるこの一節は、もはや「恩返し」の事実さえ手出しできない、確固たる[わたし]の愛の存立の表れだと考えられるだろう。

4節:〜おわりに〜

 以上が、「ピヨの恩返し」に対する筆者の解釈である。「目的」でも指摘したように、本稿の解釈は鑑賞経験を高めるために構成されたものである。伴って、解釈に一つの正解があるとする立場や、作者の意図の抽出こそが解釈であるとする立場にはない。ある特定の部分が解釈に寄与しなかったり、解釈と矛盾したりするような解釈を避け(これが2節の解釈にあたる)、言表全体の諸部分が、その読み取りにおいて意味をもたないことがないような解釈を提示しようと試みた。

 ここで、越権的に[わたし]の恋愛観にひとこと申して本稿を閉じたいと思う。たとえその恋心が感謝から生じたとしても、その恋心が感謝のゆえに純粋さが失われるということはないだろう。[あなた]がどのような恋愛観を有しているか知るすべはないが、[わたし]がこの壮大な企てをもし行わずにすむなら、それが幸せではないだろうか。もちろん、この恋愛観の存在により、当曲の美しき葛藤と解決がなされていることもまた、事実である。

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