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最終回:日常と出会いなおすためのレッスン ①観る

いやはや、下書きに漬け込んだまま実に1か月も空けてしまった。リフレクションのタブー、時間の経過。
とはいえ、時間が経過したうえで今自分のなかに残っているもの、もしくは時間の経過によってその質が変わってきたものについてメモする。

見比べることでしか自分の姿は知り得ない

最終日は、小グループに分かれてお互いの記述に対する感想や質問などを共有しあい、後半では比嘉先生からのお話を聴きつつラップアップという流れだった。

他者の目を体験してみると、あ、この方のものの感じ方は皮膚の感触を使っているのかなとか、音に集中しているんだなとか、自分とのちがいに気が付いた。へ〜、とライトに見ていくだけでもなんとなく何かそもそもの目線がちがうことを感じておもしろかったし、とくに楽しめたのは「何故これを(このように)記述したのかな?」と思う箇所を、繰り返しその文だけ読んだりじーっと見たりして、答えは自分の中にはないながらも、その「ものの感じ方」を想像してみることだった。

さらに、皆さんのお仕事内容や普段の習慣など、講義当日の会話で知ったバックグラウンドと紐付けながら読み返すと、その方のモノの見方が意図せずとも染み出しているのがおもしろい。
今回は各々が自分の選んだ場所でワークを行ったけれど、機会があれば、同じ場所を各々で観察するということもしてみたい。より差分が際立つだろうし、視点や、見たものの解釈を重ね合わせる作業がたのしそう。
やっぱり、外化されたものや他者を通じて自分の姿がやっと感じられるなあと思う。

「問い」で削ぎ落とさないこと

とくにコロナ以降の数年で、オンラインインタビューによって相手をわかろうとするやり方が自分のスタンダードになっている。そして画面の四角い枠に収まった平面的な視覚/聴覚情報と、主に「こちらの問いかけへの応答として、相手がどんな言葉を使っているか」という言語に重きを置いた理解の取り組みに慣れているが、そこではこちらが持つ問いが前提になっている。

同じ言語は言語でも、今回のように「自分の感じたことを自らの視点で描き、自らの編集によってまとめられたテキスト」を通して相手の目を感じようとする、という活動が新鮮でたのしかった。
何しろ、何を見るのかまったく指定も目安もなしに皆手探りでフィールドワークに臨んでいて、つまりほぼ前提条件で縛られることなく取り組めていたわけなので。
とくに〜について書いてください、こんな風に書いてみてください、だと削ぎ落とされたものが多かったと思う。
ただその場所に飛び込む、過ごしてみることで、必死になってなにかを見ようとするので、そこにその人の「目」、その人のその人らしさが出るんじゃないかな。場×観察者なのだよな。

リバースエンジニアリングならぬ、リバースエスノグラフィってできるのかな。他の方が書いた記述を手に、その現地に自分も赴いてみたいと思った。

真実がひとつではないからこそ、重ね合わせることで確認し合う

たとえば「〜」はお持ちですか、とコンビニのレジで店員の方に言われて、わたしは多分脳内補填できない。箸?マイバッグ?ポイント?え、もはや温めますかって言われた?といろいろ駆け巡って、なんですか、と聞き返すと思う。即座に予測しているやりとりを読んで、ああ、この方とこの店員さん(このコンビニ)の間にはパターンが存在するという示唆があるなと思った。

そもそもコンビニ、と言ったときそれは空間的・時間的にどこからどこまでを指すか、というお話はおもしろかった。「意味」の話をしているのだなと思う。JTBDでいうところのジョブに当たるものもあるかもしれない。その観点では、コンビニというのはとても多くの意味やジョブを抱えているふしぎな存在だな。
どこからどこまで、の大局の話と、そこにどんなものがあってどんなことが起こっていて、という具象の話が合わさって、読み手がその文脈を感じ取れるように記述が構成されるということなのかな。

参考図書のP.27記述が印象に残った。

フィールドワーカーの責務は、「唯一の真実」を明確にすることではなく、他者の生活の中に明らかに存在する多元的な真実を明らかにしていくところにある
「方法としてのフィールドノート」Robert Emerson, Linda Shaw, Rachel Fretz


実務に活かすための塩梅、バランス

誰かが定性調査について、できるだけ個人の主観が入らないようまとめたい、という趣旨の会話をしているのを見聞きすると、毎回考え込んでしまう。今回のワークショップシリーズへの参加をとおして、自分としてはそこを説明できるようになりたいのだろうなと、これまでただ感じていたモヤモヤが少し晴れた気がする。

面で捉えた定量の情報と対をなす存在として、定性こそは主観をおおいに活用したい。(というか定量でも「解釈」は主観、個人のセンスだと思う)ただしそこでは、自分がどんな主観を持っているのかを常に省みたいし、それは「他者」と解釈を重ね合わせながら確認する作業だと思う。

組織で言えばこれは文字通りの他者、他のメンバーだし、自分ひとりの話で言えば、これは未来の自分と対話する(今日の自分が書き残したものを、翌日や、もっと先の自分が読み考える)ことなのだろうと思う。
わかる、というのは重ね合わせるための時間をかける必要があるんだな。省略してしまうとこぼれるものなんだ、と自信が持てた。

他方、どんなにじっくり向き合えたとしても、まとめたレポートと結論をハイと共有するだけでは意思決定に繋げづらい。といって、闇雲にすべてのステップを全員と共有することも非現実的かなと思う。それでも、今回経験したような、ある対象についての解釈を対話で確認し合う時間が重要なのだろうな。
その塩梅も、組織の性格や習熟度、事業フェーズなど複合的な要素でそれぞれだろうから、追い求め甲斐があるし、UXリサーチャーの腕はここで決まるとさえ言える気がしている…。

何度も味わえそうなワークショップ経験だった

雑多に書き留めたけれど、厳密にはなんかこう言葉にまだできない感覚をたくさん得た時間だったな。まだもう少し反すうしたい。
具体で言えば、チームエスノグラフィの歩みをもう少し知りたいので、関連文献を探すところからやっていこう。
たぶんこれまた、来年くらいに読み返したらおもしろいんだろうな。

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井手 あぐり
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