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[#3 : 課題図書ディスカッション] メッシュワークゼミ記録

課題図書を全然読む余力がない1週間だった。というか、1週間で読めるはずがないのだから、少なくとも合格通知時点で読書計画を立てておけばよかったのだ…
2冊のうち片方の、「西太平洋の遠洋航海者」の序論と訳者解説くらいしか読めないまま当日参加した。

P.35
「質問を考えだし、答えを理解するようにきたえられるまでは、こんなことばで住民と自由な意思の疎通をはかることはけっしてできないのではないか、という不安な感情をいだくものである。初めのうちは、私も、彼らと詳細ではっきりとした会話をかわすことが、まったく不可能だった。
この状態を救う最良の道は、具体的なデータを集めることだ、ということがよくわかっていたので、私は村の人口調査をやり、系図を書きとめ、地図を描き、親族名称を集めた。しかし、これらの事項を住民たちがどのように解釈するかもはっきりわからなかったし、部族生活の呼吸とでもいうべきものをつかみだすこともできなかったから、私の集めた材料は、彼らの心的状態とか行動について何も教えてくれず、結局、死んだ材料にとどまった。宗教、呪術に関する彼らの観念や、妖術、霊魂にたいする信仰について知ることに関しては、ピジン・イングリッシュでむりやりに表現されたため混乱してしまった限られた皮相的な伝承の事項以外は、何も出てこなかった。

「西太平洋の遠洋航海者」B・マリノフスキ

日本語で聴き取りをする難易度のほうが圧倒的に高いのだよな、と感じた記述。なまじ同じ言語を話していると、同じ意味でその言葉を使っているように思えてしまって、集めたデータの解釈がうまく説明されているかのように聞こえるし、聞こえた内容はすべてただしく理解できていて、本人から聞いたのだからその言葉が事実だと思ってしまう。

ゼミ当日のディスカッションから

姿勢、態度についての会話が多かったように思う。もしくはわたしがそこを面白く感じて印象につよく残っているということかもしれない。

そこにカメラを向ける不自然さと、たとえばジャーナリズムとしてカメラを向ける観点

カメラを向けることで、眼差す私と眼差される相手になってしまうこと。とはいえ、カメラを向ける・写真を撮るということの「意味」が場によってそもそも異なる場合だってある。
トンガのお葬式で、ご遺体もそこにあって、というシチュエーションで、トンガの人々はパシャパシャ撮るそう。
これってとても両者それぞれがあっての馴染み具合の話だよなあ。撮ったって何していたって場に自然と馴染む人もいたし、逆に何をどう気をつけたって浮いてしまう人はいる。

「意味」の流れで紹介いただいた書評も面白かった。岸政彦さんが書かれていた「笑い」の話を思い出した。
笑うなよって腹を立てる人からは、どうしようもなく、笑いのような表情を浮かべてしまう人の意味がわからない。わたしはそんなときやっぱり、腹を立てるだろうか。

許せないものを飲み込む練習

レジリエンス、という言葉も参加者から出ていたかな。わたしは会話の流れをたのしみつつ、あー自分がこの数年いちばん努力を続けていることかもしれない、とか少し違うことを考えた。
自分のなかに正解がつよくあればあるほど、場で見たものがそれに沿っていないときしんどいんじゃないだろうか。絶対ちがうと思うもの、どうしても許せないものに出くわしたとき、自分はどうするだろうか。
そういう意味で、自分に近しいフィールドは難易度が上がるのだろうな。

「あ、そうなんだ力」とでも言おうか。突き放してる感じなく、そうなんだ、と言えること。こだわらず、でも右から左に流すこともなくただそこへ置いておけること。

「共に」問いに近づいていくこと

聴くばかりにならないよう、自分も「差し出して」いるんじゃないかなという比嘉さんのコメントが印象に残った。

「ぶつける」ことについても、言う/言わないが正しいのではなく、言ってもいいし、意見を言うことで相手の考えを引き出せることもあるという話と、いわゆるインタビューの課題として、こちらが意見を言うことで相手がそうじゃないことを言えなくなってしまうジレンマは、その塩梅がわかる人とわかんない人がいて、経験値なのかなんなのかといつも気になっていたので頷けた。

それから関係性の話として、たとえば自社企画の調査ではどうやっても「こちら側の私、そちら側のあなた」から抜け出せないことを思った。
最初からラベルとして社名がついた状態での出会いでは、正面で向かい合った関係「じゃない風」をいくら演出しても、たどりつけない領域がある。それもこのゼミに取り組んでいる意義のひとつ。

文化を書く

過去、あたかもそれが社会の事実であるかのように書かれてきたけれどもそれは適切だったのだろうか、が生まれて、それ以降の人類学者たちはその議論から逃れられない、引き受けたうえで書いている、というのも印象深かった。
自分というのはどこまでも切り離せない、客観的に書いているなどと言うことはできない。考えてみればそれがごく自然で当たり前なのに、普段ビジネス環境に身をおいていると、客観的であること・自分が切り離されていることが当然かのように錯覚する。

もうひとつほー、と思ったこと。
民族誌を読むことで、擬似的にフィールドワークをするような意味・知らなかった社会においてどんな合理性、論理、文脈のなかで生きているのか、想像の外にあることを知る意味もある、というお話。
前まで実は民族誌にあまり読み手のことを考えている印象を持っていなかったのだけど、あらためてこう捉えると、やっぱり自分はだれかの選択肢を増やす活動をしていたいので、この話は正にだな、と思うなどした。

個人面談から

個人面談の初回だった。研究テーマについて、現時点で浮かんでいるキーワードレベルで聞いていただき、関心のエリアや矢印の向かっている方角なんかを自分でも再確認。

いよいよしっかりタスク管理していかないとあっという間に過ぎてしまいそう。

読むもの

やること

  1. まずは行って見せてもらって撮れるところは写真を撮る

  2. 見取り図に書き起こす

  3. ヒアリング(ファクト収集)

  • 実査スケジュール

  • インプット

    • 上記の相互タイムライン計画とチェックポイント予定に落とす

研究テーマについては、また追って書き残すことにする。

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