見出し画像

ジャズの素朴な愉しみ

 ニ〇十五年の統計では、日本で一年のうちにリリースされる総新譜枚数のうちジャズが占める割合は五.九%にすぎない。この冊子を手にとってくださっている人々は比較的ジャズに接する機会が多いと予想されるが、それでも幼少期からジャズに接してきたなんていう人はごく少数だろう。我々京大ジャズ研の人間もほとんどがそうだ。
 しかし、そんな世の中でもなぜか人々は懲りずにジャズというフォーマットの音楽を演奏している。大抵の大学にはジャズ研があったりするし、街にあるジャズクラブとロック系のライブハウスの数はあまり変わらなかったりする。そのため、音楽市場の上でのシェアは少なくなっているにもかかわらず、演奏する人は意外にも減っていないような印象を受ける。僕も二年半ほどジャズ研で演奏させてもらっているが、少なくない奏者がジャズに惹きつけられるようになる感覚が自分なりに分かってきたような気がしている。ここでは、私が感じる、ジャズを演奏するという体験の素朴な気持ちよさを記述していきたい。

 コンボスタイルのジャズの演奏の中心を占めるのは即興演奏である。事前にある程度の構成やコードの取り決めはあるが、周りの音を聴きながら自分の中にある唄を聞き取って演奏していくのが基本的な姿勢だ。そのため、僕らが演奏すべき音は「事前に存在しない」ことになる。様々な音楽の可能世界の中から、周りを取り囲む諸条件を調整しつつ、最も自分が善いと思う音を選び出していく。その最中には、自分の技術の稚拙さによって表現したいものが遮られたり、他のプレイヤーの演奏に自分の中に無かった表現が誘発されたり、様々なファクターがリアルタイムに介入してくる。この体験は実はかなり独特なものなのではないだろうか。ロックやクラシック、ビッグバンドスタイルのジャズの演奏においては演奏すべき音は「事前に決められている」。最善の音楽世界像はすでに提示されていて、それをどの程度手前の技量で再現できるかというところが目標となってくる。また演奏と対置される作曲においては、最も善い音楽的可能世界の追求という点は共通するが、リアルタイムの諸条件の介入という現象は起きない。その世界に起きる相互行為の全ては作曲者の御手の中にある。このように行為と創造の二局面は多くの音楽体系では片一方しか体験されないが、コンボジャズにおいては「創造しつつそれを行為する」という特異な体験が起きうる。もちろん、この二重の行動を達成するのはどちらか片一方を達成することより難しい。それゆえに片方を突き詰めた音楽に比べれば、音楽的な完成度は高いと言えなくなることも多い。レジェンドと呼ばれる人々の演奏でも、思い浮かんだフレーズを吹ききれていなかったり、創造が追いつかずに手癖に頼ったりしている音源が少なくない。しかし、この二重の行動はそれを補ってあまりあるほど「楽しい」のだ。演奏者どうしのインタラクションの中で、それに刺激されながらモチーフを生み出しつつ、自分が演奏できるギリギリの技量を発揮する作業には、大学生活で灰色と化した脳細胞を発火させる歓びがある。

 もうひとつ、そのような即興の作業は時間的な特異さを持つ。僕らの周りを取り巻く時間は、「何かのための時間」として捉えられてしまいがちだ。大学生活は良い企業に就職するための時間だし、休みの日は平日によりよく活動するための日だし、仕事でお金を稼ぐのはその先のお金を使ういつかのためである。こういった垂直的な時間は成長するに従って多くの割合をしめるようになってくる。それと反対に、その時間が「その時間のために」存在するような時間はどんどん減っていく。子供が遊具で遊ぶ時間や、友人とだらだらと駄弁る時間、老人が縁側を眺める時間のような水平的な時間は優先されないものになっていく。しかし、即興の中で展開される時間はその中で水平的な密度を高く保っている。コンマ一秒後に発生させる音のために脳をフルに展開させ、演奏が終わったあとには特になにの圧倒的成長が起こるわけでもない。特に何の役に立つわけでもない、しかし水平的に充実しているような時間は我々の身の回りでは意外に得難いものではないだろうか。

 以上、僕がコンボジャズを演奏するときに感じる素朴な気持ちよさについて記述してみた。色々こねくり回しているが、つまるところ人と一緒に即興演奏をするのには妙な楽しさがあるのである。冊子を通して、少しでもこの世界を共に楽しむ人々が増えることを望む。

(雑賀敦之)

 本稿は、"I Could Write A Book" vol.1 (2018年秋頒布)に掲載されたものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?