箱が中身を規定する

Twitterでこんなことを書いた

文章を書くときは、思いついた段階で勢いで書くことが多いので、しっくりきていなくても、あたかも確固たる事実であるかのように表現することが多い。これについても、うっすら傾向として感じた段階でそう書いた。それから二週間ほどで、どんどん書くこと、あの箱に納めようという発想が強化されていき、140文字の制限が疎ましくなるまでに至った。

これを書いている今、文字制限のないことがすごく開放的で気持ちいい。思いのほか、文字制限が近づいた時の、バイブレーションというかクリック?振動の予感にストレスを感じていたらしい。ここにはそのプレッシャーがない。

これは書くことについてというよりモチベーションについて、人間というか自分が何かしらの行為を習慣にする過程についての考えだ。私は基本的に、継続しないことにはそれほど価値がない、と考えている。卒アルにも確かそう書いた。しかし、これがなかなか難しい。

自分の持っている習慣の始まりを思い出すのは難しいが、最近できたものでいうと、ピアノを弾く習慣がある。それ自体の楽しさ、ピアノを弾く喜びが原動力であることは間違いないのだが、ピアノの前に座るという分かりやすく、そして造作もなく出来る行為が入り口となっていることが、実は大きいのではないかと思っている。

内容や、行為する自分ではなくて、その習慣が収まるべき箱のほうを整備していく。時間的に、シーケンシャルに、行動の流れや、切り替えのスムーズさをデザインしていく。習慣を作るには、そういうアプローチが有効な気がする。タイトルは「箱が中身を規定する」としたが、箱は、それに向き合う人の行動までも規定するらしい。

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