マイノリティから見た東大入学式

東大入学式の記事が最近バズってますね。これです。

これの主旨は「貴方がここまで来れたのは環境に恵まれていたからであり、その力を自分ではなく他人を助けるために使いなさい。」ということであると解釈しています。

テレビ局の記者がブラックホールの件で「何の役に立つんですか?」と聞いたのは視聴者の多くがそれを知りたかったからであって、発信者というのは基本的にマジョリティに当てはまる話をします。今回も同じです。確かに東大生のマジョリティは環境に恵まれていた人であり、その意味でとても意義のあるスピーチだったと思います。

では東大生全員恵まれた環境で育ったのでしょうか?そんなことはないはずです。東京大学は学費の安い国立大学でもあります。これまで環境に恵まれなかった人一定数いるはずです。それを含めて考えると、今回のスピーチは少し引っかかるところがあります。

僕は東大生でも新入生でもありません。お前なんなんだよ、という感じでしょうが、ただ恵まれなかった側の人間です(詳細は省きます)。 この文章は、今回の件を映し鏡とした自らの思考整理および発信として書きます。


何が問題かというのは、博愛主義の強要が発生し得る、ということです。「自分の力を他人を助けるために使いなさい」というのはしょせん性善説の人間のポジショントークでしかありません。

環境に恵まれた人は往々にして性善説で生きています。これまでの周りの支えに感謝し、同じことを他人にもしてあげる。博愛主義になるのは造作もないことでしょう。

対して、環境に恵まれなかった人は往々にして性悪説になります。性善説の皆様には信じがたいことかもしれませんが、我々にとって博愛主義になるほど難しいことはありません。今まで散々人から蔑まれ裏切られ、人を信じられなくなった人に、他人を愛せよなどと。言語道断です。

この難しさ、辛さを知らない人間達が、「なぜ皆を愛せないの?」と同調圧力をかけ、結果的に強要をすることを、僕は心から危惧しています。

恵まれなかった人たちは、自分がサバイブするために、自分の生活環境を良くするために、必死に頑張ってきたのです。それでやっといい大学に入り、自分の力で環境を変えられるところまで来たのに、突然「その力は自分でなく他人のために使え」などと強要されたら、それこそ横取りです。なんの為に頑張って来たのだろう、となるでしょう。

世のため人のためになりたいなら、勝手にやっててくれ。社会的正義を振りかざして、力を横取りしないでくれ。その力は自分で使いたいと思ってつけたものなんだ。わかった。世のため人のために貢献するから、環境が良くなるまで、もう少し待っててくれないか。

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