去年のアドベントカレンダーをブッチした話

 一昨年ぶりです。どうも私です。一昨年度はアドベントカレンダーを二つも書きました。(一昨年の記事はこちら。→記事1記事2
 去年も書こうとしたので、枠だけ取ったのですが、なんと書かないまま2022年度のアドベントカレンダーを書いている次第です。なぜそのようなことになってしまったのかを分析します。

去年書かないことでなにがあったのかっていう話

 実際に、アドベントカレンダーをブッチしたことで何かあったのかというと……

ワンピースより

 いやーほんとになにもなかったんですよね。書いてないものは何もないので何もないのは当たり前なのですが、とくに「書かないといけない」と思うこともなく一年が経ちましたね。我ながら感心しています。 

去年書こうとした話

 去年、何を書こうとしたのか。それは「コンテンツとして消費される寮」です。
 昨年度は寮内のコンパ等でたくさんの寮外生が来ていることが問題になっていたので、そのことについて書こうかなと思っていました。具体的にどののようなことを書こうとしたのか。それは「自治寮という空間は全人民に対して開かれるべきだという考え方と、寮という存在自体がそれを生活空間とする寮生のためにある性質には矛盾がある。それが自治寮の限界でありそれとどのように折り合いをつけていくのかが大事」ということです。
 自治寮が全人民に対して開かれるべきだという考え方は寮が「大学の福利厚生施設」であるという側面によって担保されています。近年では、寮を全人民に対して解放する理由は「少しでも寮を好きになってもらえる人を増やすため」という連帯の側面が強いように感じます。自治寮の存在自体が危ぶまれる現在においてそのような考え方があることは自然であると思います。少しでも自治寮が存続してほしいと願う一寮生としてこの考え方を否定するつもりはありません。
 しかしながら、この考え方は寮の運営形態と相性が悪いことは言うまではありません。大学からの補助があるとはいえ、寮の大部分の運営は寮生の負担により成り立っています。(自治寮なので当たり前ですが)その寮生のインセンティブとしては「自分達のことだから自分でやる」というものです。そのようにして成り立っている寮なので、寮生は少なからず寮を自分のものだと思ってします。さらに、自分の生活空間なのでそう思うのは当然です。それなのに、そのような空間を寮外の人たちに我が物顔で入られていい思いをするはずがありません。確かに寮は「大学の福利厚生施設」ではありますが、その側面から全人民に開かれるべきだという考えに繋がるのは少しジャンプがあるのかもしれません。ここに、寮なりの考え方の限界があるのではいのでしょうか。折り合いをつけてこれからの寮のあり方を考えていかなくてはいけないのではないのかと思います。

一年間書けなくてすみませんって話

 前項で去年書こうとした話を適当にまとめたわけですが、書いてみれば一瞬なのになぜ書けなかったでしょうか。それはめんどくさかったからですね。去年の12月4日の枠をとっていたわけですが、12月3日の夜までは真面目に書いていたんですよ。ですが、間に合わなくて一旦放置してました。そうしたら、また書くのがめんどくさくなってそのまま1年経ってしまいました。すみません。

なぜ書けなかったのかっていう話

モチベーションの維持って難しいよねっていう話

 筆が遅い人っていますよね。筆が遅いことは問題ではないのですが、そのまま書かなくなることが問題なのです。それは計画性がないことが問題なのでしょうか。私が思うにモチベーションがなくなってしまうことが問題なのではないのかと思います。アドベントカレンダーに限らず、入寮パンフに寄稿するときにも起きる問題です。書き始めたら最後まで一気に書かないと途中で力尽きでしまいます。大学のレポートにしてもやれる時間というものが存在しているわけでそのときに最後まで書かなかったことが問題だと思います。
 これは寮のことだけではなくて他のことにも言える話です。やり時というものが存在していてそれを逃すとまた再開するのは難しいです。どのようなものにおいてもそのようなものは存在しておりそれを逃さないようにするのが大事っていう話ですよね。モチベーションのあるときにできるだけ一気にやってしまうのがいいと思います。
 モチベーションを維持するのってとても難しいことはみんな知っていると思います。私はモチベーションを維持することができっこないので、モチベーションのある間にやってしまうという答えを得たわけです。モチベーションを維持するいい技があったら教えてください。寮のことってなぜかモチベーションが続かないんですよね。生活に結びついているとはいえ、今の生活が特に問題なく進んでいるの強いモチベーションを持ちにくいと思うんですよね。

行動するかどうかをどうやって決めるかっていう話

 行動できるかどうかってどのように決めていますか。だいたいの人ってなんとなくで決めていると思います。事実私もそうです。でも、自分のことを分析するときには、「コスト」と「ベネフィット」でどちらが大きいかで分けて考えていることが多いです。
 一般の生活において、コストとベネフィットを決めるのか。製造の過程であれば、コストとベネフィット(利益)がはっきりわかっているのでわかりやすいです。一般の生活ではコストをめんどくささと考えるといいと思います。そのめんどくささに打ち勝つほどのベネフィットがあるかどうかで行動するかを決めてみたらいいと思います。
 一つ一つの行動に対してこのようにしてコストとベネフィットを考えるのはめんどくさいですよね。なので、「自分がやりたいけどめんどくさい」や「やってみたいけどなかなか勇気が出ない」と思うときにこの考え方を適用するといいと思います。これは私の話ですが、今年度の夏に地元に帰省したときにわざわざ高校のときに好きだった人に会いに行きました。あってみたかったのですが、なかなか勇気が出ず困っていました。そのときに、この考え方をして乗り越えることができました。なかなか踏み出せないときに、自分の思考をプラスにするために使ったらいいと思います。

主体的に価値を決めたいっていう話

 このコストとベネフィットの考え方は自分で主体的に価値を決めるということにも繋がると思います。現代に生きる我々は価値を与えられることに慣れすぎているのではないのかと思います。ものを買うときにしても向こうから価値を提示されることが多いです。価値は需要と供給に決まると言われていますが、一個人のレベルではものの価値を決めているという感覚はありません。我々が価値を決めるときは基本的には与えられたものを自分が払えるかどうかで判断していることが多いと思います。
 しかし、そのような価値の判断の仕方ではなく自分の決めた価値と向こうから提示された価値があっているのかを判別するという価値の決め方でありたいと私は思います。「自分で価値を決めるのが先」か「価値を提示されるのが先」かという違いなのですがその二つには大きな違いがあります。
 価値が提示されるのが先であると、自分が払えるかどうかという価値判断になってしまいます。その結果、できるだけ安く済ませようという思考回路に陥ります。できるだけ安くするという考え方は悪くないと思いますが、できるだけ安くすることだけが全てではないと思います。対して、自分で価値を決めるのが先であると自分の基準に基づいて判断することができると思います。この二つの違いが大きく出るのが、カンパをするときだと思います。価値を提示されるのが先の考え方で生きていると、カンパを求められたときに「0円でも良いなら払わない」という判断になるのが最も合理的になってしまいます。そうではなく、自分が受けたベネフィットに対応する価値を提示できるようになれば良いのではないのかと思います。そのためにも価値を自分の中で主体的に決めていくことが大事になっていくのではないのでしょうか。

次、書くときは頑張るっていう話

 寮にいる間はなんだかんだ言って自分語りをする時間がたくさんあります。次の機会は入寮パンフだと思います。そのときにはちゃんとモチベーションのあるときに書ききれるようにかんばりたいです。



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