「織田作之助賞」受賞作家の小林長太郎と彼が残したブログ「負荷」と記事を忘れない為に〜#9

ブログ「負荷」には およそ2年半のあいだに1842本もの記事がアップロードされています
ブログにアクセス出来なくなったので
読むことがで出来るのは「負荷」読者の手によって残されたわずかな記事と
私が記録した未コメントの記事のタイトルだけ
このマガジンはそれらに出来るだけコメントしようという試みです
【参考】
第2回 小林長太郎まつり
https://manyo1000.blog.fc2.com/blog-category-7.html
BUNGAKU@モダン日本
https://nonajun.hatenablog.com/

庄司薫論オメガ4
4/全共闘と『ぼくの大好きな青髭』

十・三大衆団交に勝利するぞ! 十・三大衆団交を実現するぞ! 吉田体制を打倒するぞ! 最終的な打撃を与えるぞ! 吉田体制を粉砕するぞ! 全理事は総退陣せよ!
―以下略―

(『「全学連」研究』本橋信宏/青年会館/発行年月日不明  /P.139)

冒頭部分のこれでも一部を引用
もっと長いのだが負荷さんもある本からの孫引き
それは省略するが負荷さんは何故に引用して来たか…負荷さんはあることを想起した
それは…書かれた日付が入っていたので長くなるが引用

これは『反逆のバリケード――日大闘争の記録』(日本大学文理学部闘争委員会書記局編三一書房1969年発行)からの孫引きになる。今(1998年12月)改めてこの文字面を目で追うと、オウム真理教の「修行するぞ、修行するぞ……」という暗示テープに似ている気さえしてくる。

このあと次の言葉が出てくる
私には馴染みが無いので負荷さんの学識の深さを思って印象深いので引用

シュルツ式自律訓練法では「~するぞ」とは言わない。

「シュルツ式自律訓練法」とは?興味があるがここは先を急ごう

負荷さんはシュプレヒコールについて言及しているがそのあと庄司薫氏が出て来る

庄司薫の『ぼくの大好きな青髭』はその全共闘世代へのシンパシーに満ち満ちた作品だが、当然批判も含んでいる。

あまり内容に興味なく読み進めていたら
「臑噛り」という言葉…文脈から
「すねかじり」と読めるのだが
負荷さんはさすが文学者…難しい漢字をお使いになると思った
脛齧り 臑齧り の例もあり

さてさて負荷さんもかなり人を揶揄する事を書くのだなと思った部分を引用
庄司薫氏に対してだが

薫くんは体を売るふりをして背伸びをして仲間の関心を集めようとしたお坊ちゃんの甘さや、そんな彼のおふざけにふりまわされて大活躍する自分の純粋さ、そして生意気で我儘な若者への甘ったるいシンパシーに満ち溢れた幼稚な大人たちを一まとめ肯定しようとした。

「いや、実は庄司薫には、答えがあるのだ。」
と書いて(続く)となっていた

ところで庄司薫氏
私は何も知らないが印象的には坊っちゃんタイプかと思って
確かピアニストの佐藤愛?違うな…
誰かと結婚したのが意外だったが
ウィキに目を通して「三省堂の専務の息子」の記述に納得
作品は『赤頭巾ちゃん気をつけて』だったか…
ああ…結婚したのは中村紘子だった
彼女はテレビでよく観た人だが話し方や衣装仕草からお嬢さんだなと思った
生年月日を見ると私より3歳上で享年72歳
2022/01/30

薄さと安全性

携帯電話会社が顧客の奪い合いにしのぎを削る中、テレビ・コマーシャルでは極端にいびつな表現が工夫され始めた。
 「薄さ○○ミリ」
 …という表現が露骨に使われる。

タイトルだけで私はてっきりコンドームの話かと思っ
負荷さんの好きな話題では無いかと
だって前に読んだ文では男の固くなった一物で扇風機の羽根が破壊され話があったから
いやいや今回はかなり社会的問題
原発のことだ
安全性に問題無いと説明表現されるがそれは問題ではないかと言う提起
そもそも原発は危険な物
故に危険性をコントロールすると表現すべきと…
安全性と表現する事で危険性を隠す意図が潜んでいる

つい最近の事だが環境問題どの関連で国連の何かの機関が
原発をグリーン認定して推進する方針を出したとか
ツェルノブイリとかスリーマイル島とか福島とかの事故の事は忘れられたようだ
負荷さんはこう書いて記事を閉じている

原子力発電所も、これから「原爆発電所」と名称を改め、その危険性をきっちり管理すべきではないかと思う。

2022/01/29

『海辺のカフカ』の負荷

1/語り残されたもの

 語るべきものはあまりに多く、語り得るものはあまりに少ない。
 おまけにことばは死ぬ。
 一秒ごとにことばは死んでいく。

  (『街と、その不確かな壁』/村上春樹/『文学界』/1980年/p.46)

冒頭部分の引用
まだ先を読んでいないから
この先どんな展開になるか知らないがが
冒頭部分の春樹ご書き残した言葉についての論考になるのだろうが
私としてはそんな事より気掛かりなことが出来た
タイトルの件だが…
『海辺のカフカ』の負荷1/語り残されたもの
こうつなげてみた
段落を空けての書き方でも意味は変わらないだろうか
私には違った風景?に見えた
つまり…このブログは
そもそも海辺の負荷…
この小説について
小説が負っている様々な問題を考えるためのものだったのか
だから負荷なのが…
そんなブログの姿が見えて来た
負荷と言う言葉ありきでは無く
海辺が先にあっての負荷なのだと
何故負荷なのかと以前は思った
海辺の負荷…
それは取りも直さず春樹の謎について論考する場では無いかと…

では先を読んで行こう
読んだところで記事終盤の引用

だから私がここに書こうと思うのは、厳密に言えば『海辺のカフカ』の謎解きではない。
 そのように感じられる要素があるのは否めないが、それだけではない。
 では一体何を書こうとしているのか。
 それはどうしてもことばにできないものなのだ。
                (次回は「2/カフカとは誰か?」の巻)

で結ばれている
負荷さん・・・面倒くさがりな私なのでブログ主の小林長太郎氏の事をそう呼んでいる
海辺のカフカのことは海辺と呼んでいる
ついでに村上春樹氏の事は春樹と呼んでいるのでご承知置きをよろしく…

負荷さんは海辺の負っている問題を考えるためにブログを作った
春樹ファンもそれらの謎解きをしているのだろう
春樹のメッセージを受け止めんがため
春樹の真実に近づくため
ところが私は…縁あってこのブログを知ったものの
そしてこうやって全記事へのコメントを書く作業を日課にしているものの
春樹への興味関心がまったくと言って良いほど無い
負荷さんが春樹や海辺をどう考えているかには興味がある
それは負荷さんについての興味関心からだ
負荷さんの事をこれからもっと知る事ができたら
その結果としと春樹やその作品に興味を持つようになるかもしれないが…
さとどうだろう…先の事は誰にも分からない
自分にさえ分からないものだ
分かっていることは一つある
これは絶対と断言出来る
もし春樹に興味が湧いたとしても本は読まないと
それは面倒だから…
コメントを日課にしたのは単なる書く試み…書く練習と言うのかな
だからおちょくった書き方になっていると自分でも思う
記事が書けたらそれだけで嬉しい
今回も負荷さんの記事の内容には触れずに自分の事ばかり書いた

冒頭引用した春樹の作品からの負荷さんの引用文を見ると

 語るべきものはあまりに多く、語り得るものはあまりに少ない。
 おまけにことばは死ぬ。
 一秒ごとにことばは死んでいく。

比較するのは失礼と思うが…私の場合は
語るべきものはあまりに少なく
語り得るものもあまりに少ない
しかし書いたものは残る
誰かが何処かで見てくれる
書き残した言葉は生き続ける
2022/01/28

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