適当


私は仏の教えには絶対の正解が無いと考えています。
残されたお釈迦様の言葉は常に適当を大切になされており、相談された相手に合わせてお話をなされています。
故に、相談者の数だけの回答が存在しますし、お釈迦様のお亡くなりになった後に多くの門弟が集まり集結という中でお釈迦様の言葉を確認しあっております。
私自身は、真宗の僧侶なので親鸞聖人の教え、その先生の法然上人の教えを大切にし、広げる事がお勤めだと考えております。
では、法然上人や親鸞聖人の教えは何を大切になされたかと訊かれると「称 南無阿弥陀仏」が大切ですとお答えするにとどまります。
称は称(とな)える南無阿弥陀仏はお念仏ですので、お念仏を称えましょうとなります。
お念仏を称える事による費用対効果やコストパフォーマンスは如何程かというのが現代人の発想だと思いますし、私もそう考えてしまいます。
費用対効果が悪い事、コストパフォーマンスが低い事をする意味があるのかどうか考えましたが、結論としては、そういう眼でお念仏を見ない方が正解なのかなというのが最近の私なりの考えです。
南無阿弥陀仏を解体して読むと
「南無」は任せるとか頼るとか、あとは、こんにちは、さようならの様な感じの言葉になります。
ですので、親近感のある関係性が前提の挨拶語と私は考えております。
今から40年位前にドクタースランプアラレちゃんというアニメが流行ました。
この時にアラレちゃんはいつも「んちゃ」と挨拶をしておりました。
愛知県では気楽な関係性の挨拶語として使われておりますが、それぞれの地方の気楽な挨拶言葉が南無の意味合いでも良いのではないかと思います。
「阿弥陀」は日本語では数多(あまた)となります。
書いて字の如く沢山の、人智を超えた数と思っていただければ良いと思います。
最後に「仏」ですが、ブッタの意味を鑑みれば、お亡くなりになった人とか魂や霊魂と考えるより、そのまま気付くとか教えるという私への働きかけと考える方が素直な読み方だと思います。
これらをまとめて訳すると、阿弥陀様と受動的な関係性で考えれば、「常に気付かせていただける世界に私は存在する」くらいの訳になると思います。
逆に能動的な関係性であれば「常に気付ける世界が私にはある」でも良いと思います。
それぞれの状況に合わせて使い分けされるのが良いと思います。
私の好きなお念仏の教えは常に正解は無く、あなたが事ある毎に気付く生活が大切だと言われている気がしておりますので、それぞれの都合に合わせた世界に自分らしく生きれば良いとも考えております。
正解があれば正解から外れた人生は、狭く苦しくなります。
正解が無いからこそ、広く無限の世界が広がっているのだと思います。
そして正解が無いからこそ、それぞれの歩まれてきた人生が全部が正解で宝物だと思う事が出来るのだと思います。
そんな真宗の教えですがもし、ご興味があればご連絡ください。
薄く浅い知識でお答えいたします。

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