山月記を読んで
「山月記」は主人公の心情がより鮮明により身近に描かれた作品だった。たとえば人間を忘れていく自分を恐れる心情、過去の栄光にすがる自分を侮蔑する心情だ。また、物語が終盤に向かうにつれて、虎に還らねばならない時が迫ってくる表現がもの悲しく、でも、どこか綺麗だった。
生きる上で大切なことも学んだ。人間であった時の季徴は、自ら人との交わりを避けていたが、自尊心と羞恥心を取っ払えば詩人として名を成すことができたかもしれない。一方、虎になった今の季徴は、悲しみや苦しみから吠えたとて周りの獣たちは彼の気持ちが分からないまま恐れひれ伏す。どう頑張っても孤独だ。臆病な自尊心と尊大な羞恥心なんて持たない方がいい。
一つ考えたことがある。李徴が虎になる前に追いかけた「声」についてだ。この「声」はいつのまにか消え、正体が明かされることはなかった。ここで一つ仮説を立てたいと思う。それはこの「声」の正体は、李徴が長年追い求めていた「名声」だったというものだ。冒頭の「名を虎榜に連ね…」から、虎には優秀、尊大という意味があるのではないかと想像する。つまり、虎という猛獣こそ、李徴の思い描く「名声」の権化だったのだ。途中で声が消えてしまっていたのは李徴自身がそれになったからであり、このことは、季徴にはもう名声を手に入れることができないということを暗示している。その証拠に、虎になってしまった季徴にはもう人間としての生活はできない。ましてや詩の発表など尚更だ。長年追い求めていたものが、“自分自身のもの”になった本徴だったが、待ち受けていたのは辛く厳しい現実だった。なんとも皮肉である。
この話は人間が虎になるという突拍子もない設定の、作り話らしい作り話だ。だが、そうした設定を除けば、同じような事象は現実にも起こりうる。もし私の身にそれが降りかかったとすれば、私は挫折し苦しむだろう。そんな時は、すべてを受け入れけじめを付けた李朝のことを思い出し、精進していきたい。
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