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中山みき研究ノート4-1 布教拡張と弾圧


明治2年正月から書き始められたおふでさき、、、、、は、まず、屋敷の掃除ということを主題として、秀司の心得違いを諄々と論しています。以来、ともすれば拝み祈祷に流れてしまう人々の心を正しい方向に導き続け、秀司夫妻が亡くなり、転輪王講社が壊滅した明治15年には、その筆を納めておられます。 

この年の12月には地福寺との関係も切れてしまい、その後は再び警察の取締りが厳しくなって きました。蒸風呂、宿屋などは全て、まつゑ、、、が亡くなった時に廃業しました。隠れ蓑を失ったので、警察の干渉は一段と厳しくなったものと思われます。この頃のお屋敷には、昼はほとんど人がいなかったといわれます。しかし、夜になると何処とも知れず多くの人数が集まり、夜通し教祖の話を聞いては、朝になると帰って行ったという話が伝わっています。その頃の真之亮の手記に、

真之亮ハ15、16、17ノ三ヶ年位、着物ヲ脱ガズ長椅子ニモタレテウツ/\ト眠ルノミ。夜トナク昼トナク取調ベニ来ル巡査ヲ、家ノ間毎/\屋敷ノ角々迄案内スルカラデアル。甚ダシキハ、机ノ引出し箪笥戸棚迄取調ベナシタリ。巡査一人ニテ来ル事稀ナリ。中山家二常住スルモノハ、教祖様、真之亮、玉恵、久ノミナリ。

とありますが、もちろんこの他にも飯降伊蔵一家がお屋敷に住み込んでいました。『稿本教祖伝』ではこの頃のことを次のように書いています。

このように、この年は反対も激しかったが、それにも拘らず、親神の思召は、ずん/\と勢よく伸び弘まった。明治15年3月改めの講社名簿によると…(中略)…大和国5、河内国10、大阪4、堺2の講社が結ばれて居り

又、次のようにも記されています。

当時、講元周旋の人々は、山城、伊賀、伊勢、摂津、播磨、近江の国々にもあり、信者の分布は更に遠く、遠江、東京、四国辺りまで及んだ。

明治16年になると、警察は、人を寄せてはならぬ。と、一層厳しい圧迫を加えた。中でも、 3月(陰暦二月)、6月(陰暦四月)、8月(陰暦七月)等のふしは、いずれも忘れ難い出来事である。

そして次に、弾圧の様子が出ています。

同年3月24日(陰暦2月16日)、突然、一人の巡査が巡回にやって来た。その時偶々、鴻田忠三郎が、入口の間でおふでさきを写して居り、他に泉田藤吉他数名の信者も居合わせた。

巡査が言った。貴様達、何故来て居るか。と。参詣の人々は、私共は親神様のお蔭で守護を頂いた者共で、お礼に参詣して参りました処、只今参詣はならぬと承わり、戻ろうと致して居ります。と答えた。

次に、巡査が鴻田に対して、貴様は何して居る。と問うた。鴻田は、私はこの家と懇意の者で、かね/\”老母の書かれたものがあると聞いて居りました。 農事通信委員でもありますから、その中に、良い事が書いてあらば、その筋へ上申しようと、借りて写して居ります。と答えた。 実際、忠三郎は、既に3月15日付を以て大蔵省宛に建言書を提出して居たのである。すると巡査は、戸主を呼べ。と言った。丁度、真之亮は奈良裁判所へ出掛けて留守であったので、その旨を答えると、戸主が帰ったら、この本と手続書とを持参して警察へ出頭せよ。と申せ。と言うて引き揚げて行った。帰ってこの事を聞いた真之亮は、当惑した。 ここでおふでさきを持って行って、没収でもされゝば、それ迄である。と気付いたので、おまさ、、、等にも話して、どんな事があっても、この書きものを守り抜こうと決心した。そこで、その本はおまさ、、、おさと、、、の二人が焼いたという事にして、手続書だけを持って、出頭した。

すると、蒔村署長は、鴻田の写して居た本を持参したか。と、問うたので、その本は、巡回の巡査が、そのようなものは焼いて了え、と申し付けられましたから、私の不在中、留守番して居りました、伯母おまさ、、、と、飯降おさと、、、の両人で焼いて了いました。と答えると、署長の側に居た清水巡査が立ち上がり、署長、家宅捜索に参りましょうか。と言った。真之亮は冷やっとした。 けれども、署長は、それには及ばぬ。と。つゞいて、署長の問うには、お前方に来て居た人は、何処の者で、何と言う人か。と。これに対して、私は不在でしたので存じません。と答えると、自分の家に来ている人々を知らぬと申すは、不都合ではないか。とて、真之亮を、その夜留置した。そして、真之亮、おまさ、、、おさと、、、は皆、それ/\”手続書をとられた。

警察は、教祖の教えが非合法なものであり、明治政府の基本方針には合わないものだということが分かっていたのです。そして、この弾圧が、この頃の自由民権運動の盛り上がりと関連して激しくなっていることも見逃せません。

自由民権思想が国中に広まってくると、政府は憲法を制定することを国民に約束しました。しかし、民権(国民の権利)を強める憲法を作ってしまったら政府は安泰でいられなくなることから、国有財産を天皇家の財産に書き換えることが進められました。そのため、皇室には巨額の資産が蓄積されたのです。

17年には、華族制度が整備されました。明治の初めに、皇族、華族、士族、卒族、平民という階級が作られましたが、その中の華族を、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵と細かく分けて、皇室を守る藩塀として華族制度を強化したのです。さらに、日本の軍隊は議会の決定で行動するのですが、それに対して、近衛師団を強化して、国の軍隊が、苛酷な政策をとる皇族・華族を恨んで銃を向けるという事態に備えたのです。それでいながら近衛師団も国の税金で養っていたのです。

そういう中で教祖は一列兄弟を説き、全ての差別を根本から正すかんろだいづとめの思想を教えていたのです。その象徴が、つとめ人衆の背中に付けられた菊の紋であることから、政府は徹底的に取り締まることになりました。

取り締まられる人の中には、鴻田忠三郎のように、篤農家で新潟の、今でいえば農事試験場にお役人として赴任するというような人もいました。鴻田は教祖のお教え下さる心構えで農業をやれば、一下り目にあるように、

七ッ なにかにつくりとるなら
ハッ やまとはほうねんや

となることから、この教えを皆が身に付けたら収穫量も増え、国も繁栄するはずだとして、許可してくれるようにと国に建言書を提出しているのです。/しかし、これは、政府が山村御殿で最初に教祖を取調べたときから、天皇も人間であるという教えを、基本的に許可することの出来ない教育であると見ていることに気付いていない人達の運動だと思われます。

弾圧の本質が分からないままでいる人達が大勢いました。また、教祖の教えをしっかり聞いて深く理解していた人達は、世直しの教えであるから弾圧されても当然と考えていました。その後、『稿本教祖伝』には16年6月のふしについての記述が続いています。

同年6月1日、陰暦4月26日、参詣人取締りのため警官の出張を頼んだ。すると、3名の巡査が出張して来たが、参詣人が多くて引も切らぬので、午後になって、更に、私服が2名やって来た。午後3時頃、この5名が打連れて布留の魚磯という料理屋へ行き、一杯機嫌で再びやって来て、直ちに神前に到り、三方の上に供えてあった小餅に、一銭銅貨が一枚混って居たのを口実に、真之亮を呼び出した。

当時は陰暦で│おつとめ《、、、、》をしていました。それで、4月26日に警察が取締りに来たのを布留の魚磯に連れて行き、酒、肴で接待したものと思われます。

お屋敷に戻って来ると警官等は、お賽銭を上げないように言ってあるのに、上がっているではないかと言い掛かりを付けます。本当に上がっていたのかどうかは何とも言えないが、その時の様子を、

巡査ハ怒りて、小餅を壁土の中へ投げ込み、神の社及び祖先の霊璽迄、火鉢ニて焼き、而して己れ等の失策ニならざる様ニ真之亮ニ手続書を書かせて持ち帰れり。而して其手続書ハ巡査が文案して書かせり。尤も文案ハロ上にて申せり

(真之亮手記)

と記しています。巡査は、接待を受けても何もしなかったというとまずいからひと暴れして、それが問題になった時のために証拠が残らないようにと、手続書を書かせています。警官の抜け目のなさはなかなかのものです。

この時に「神の社及び祖先の霊璽まで」とありますが、手続書によると、「巡視相成私先祖亡霊ヲ祭祀致候処御出張ノ際取除グベキ様御説諭ニ預り」と、先祖の亡霊を祀るというおかしな言い方がされています(注=天理教教会本部『稿本教祖伝』256~257頁 1956年刊)。これが仏式の位碑であったのか、神式の霊璽であったのか、教会本部の発表はありません。

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