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中山みき研究ノート あとがき

本書は、教祖百年祭(1986年1月26日~2月18日)の期間中、櫟本いちのもと分署跡保存会(天理市)の有志を対象に、教祖伝の連続講座を開いたときの口述筆記を基に編纂したものです。

叙述が教内向けになっているのはそのためで、教外の読者にとっては、すぐには理解し難い点が諸所にあると思います。それは、すでに教内で人口に膾炙していると思われる個所の説明を簡略化するか、もしくは省略して話を進めた場合があるからで、後から若干補筆してはありますが、未だ十分とはいえず、他日を期して、より練りあげてゆく心算です。 研究ノート、、、、、と題した所以、、、であります。

さて、教内の読者の中には、読み終えて、「長年信仰の手本にしていた教祖の像を見失った」とか、「何を信じてよいのかわからなくなった」と思う人がおられるかも知れません。

しかし、それは当面の錯覚です。今までの教祖像が崩壊するほど、矛盾のない、そのまま誰人にも実践できるような、堅固な教祖像を作り直す作業、、が始まったのです。

1945(昭和20)年8月の敗戦を契機として、日本の歴史は根底から書き直されました。それは、学校の教科書を墨で塗りつぶすことから始められたのです。それまで現人神あらひとがみであった天皇が、神にあらずして人間であると自ら宣言したことによって、虚構と事実との違いが明らかになり、天皇の”民草”であった国民に主権が移ってから、すでに40余年が過ぎました。しかし、主権在民も個人の尊厳、平等という思想も、いまだに消化されたとは言えぬ情況が尾を曳いています。意識の変革は、口でいうほどたやすいものでないことを知る必要があります。

伝記は、史実に基づいて述べるのが鉄則であって、史的記録の厳しさに背を向け、時の権力に迎合したり、体制の都合本位に史実を歪曲したものは、時の経過と共に無理が露呈して、やがて崩れます。史伝の虚構は万人を欺くものだからです。

明治21年の神道天理教会の設置願書をお読み頂けば、三条の教憲に示された「天理人道」を教義に取り入れ、終身これを遵奉すべしと、会則にまでうたいあげたが故に、天理教会と名付けられたのも明らかな史実です。天皇公認宗教になるため、明治31年に『教祖様御伝』が捏造され、説き流し、語り続け、これを底本として昭和31年に『稿本教祖伝』が作られて、別席や修養科で教えられてきたのです。その結果、お道の人は昔ながらの因縁話を説き、妙好人のように従順な、偽りの教祖像を持たされ、差別的な教理と環境に馴らされてしまったのです。

『稿本教祖伝』によると、教祖は独自の教えも説かず、世直しの行ないもしていません。そして、罪もとがもなく捕えられたことになっているのです。 富国強兵を国是とした天皇制国家の弾圧を避けるため、ひたすら国の方針に順応して、教えの真実をかくし続け、かくて国の教育方針に適合した架空の教祖像を作りあげたのです。

形ある建造物は既存のものを撤去しなければ、次のものは建てられないが、精神的建造物は、堅固なものが出来あがって、はじめて在来のものが消滅するのです。

本書によって、人間の平等を説き、陽気づくめの実現を推進し続けた力強い教祖の実像に触れ、これまでの虚像は消えたはずですが、しかし、真実像に馴染み、胸におさめて、生活の中に生かすためには相応に時間がかかります。もしも、長年馴染んできた教祖像を見失ったような寂しさが残るとすれば、それは虚像のひながたを金の額縁に納めて高い所に飾っていたからであり、そのような教え方しかされていなかったからでもあります。

みかぐらうた、、、、、、おふでさき、、、、、を経糸に、合理性を緯糸にして、ふるいにかけることを「思案」すると申します。真実に目を当て、心を定めて進むとき、教祖と共に居る実感が味得できます。「教祖存命の理」 は客観世界にあるのではなく、ひながたの実践の中にしかありません。ひながたは、極めて身近なものであることをお分かり頂く上に、本書がお役に立つことを念じてやみません。

  1986年12月 櫟本分署跡にて

                         八 島 英 雄

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