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中山みき研究ノート4-3 17年3月のふし

だんだんと大勢の人が話を聞き分け、参拝に来るようになると、弾圧もその激しさを増して来ました。明治17年3月の御苦労について『稿本教祖伝』では次のように記されています。

3月23日、陰暦2月26日の夜12時頃、突然2名の巡査が、辻忠作を伴うてお屋敷へやって来た。

それは、同夜お屋敷へお詣りした忠作が、豊田村へ戻ろうとして、鎮守の杜の北側の道を東へ急いで居た時に、この2名の巡査に行き会い、咎められたので、用事あって中山家へ参り居まして、たゞ今戻る処で御座ります。と答えたため、同人を同道して取調べに来たのである。

その時ちょうど、教祖のお居間の次の間に、鴻田忠三郎が居り、其処に御供もあり、又、鴻田が古記と唱えて書いて居たものもあったので、巡査は帯剣を抜いて、この刀の錆びとなれ。と言うて脅かした。その上、翌日になると、御供と書きものを証拠として、教祖と鴻田を分署へ拘引しようとて、やって来た。

教祖は、拘引に来た巡査に向かい、

『私、何ぞ悪い事したのでありますか。』

と仰せられた。巡査は、お前は何も知らぬが、側について居る者が悪いから、お前も連れて行くのである。 と言った。教祖は、

『左様ですか。それでは御飯を食べて参ります。ひさ、、やこの方にも御飯をお上げ。』

と、言い付けなされ。御飯を召し上がり着物を着替え、にこ/\として巡査に伴われて出掛けられた。

分署では、先に見付けた御供と書きものとを証拠として、教祖には12日間、鴻田には10日間の拘留を申し渡し、奈良監獄署へ護送した。

こうして、3月24日から4月5日まで(陰暦2月27日から3月10日まで)、監獄署で御苦労下されたのであるが、その間、差し入れに又留守居に、真之亮初め取次の人々も、一般の信者の人々も、心を千々に砕き有らん限りの真心を尽した。

お帰りの時には、信者の人々が多数、お迎えに押し寄せたので、監獄署の門前は一面の人で、午前10時、教祖が門から出て来られると、信者達はパチ/\と拍手を打って拝んだ。

奈良監獄署のあった所は、現在、梅谷大教会となっています。教祖はそこから今の県庁の中を通って、興福寺のところの宿屋でお休みになっています。

監獄署を出られた教祖は、定宿のよし善で入浴、昼飯を済まされ、お迎えの信者達にもお目通りを許され、酒飯を下されて後、村田長平の挽く人力車に乗って、お屋敷へ帰られたが、同じく人力車でお供をする人々の車が数百台もつゞいた。沿道は到る所人の山で、就中、猿沢池の附近では、お迎えの人々が一斉に拍手を打って拝んだ。取締りの巡査が抜剣して、人を以って神とするは警察の許さぬ処である。と制止して廻ったが、向こうへ行って了うと、命の無い処を救けて貰たら、拝まんと居られるかい。たとい、監獄署へ入れられても構わんから拝むのや。と呟やきながら、尚も拍手を打って拝む有様で、少しも止める事は出来なかった。こうして、恙なくお屋敷へ着かれたのは、午後の2時であった。

明治17年頃になると、民権運動への圧迫が強くなります。各地で農民の困窮が激しくなり、鉄砲や刀、竹槍などで武装しては過激な暴発というに近い行動を起こしていました。中でも、加波山事件や秩父事件は大規模な騒動となり、政府はこれを軍隊まで使って鎮圧しています。壊滅すると知りながらも決起せざるをえないという人民の状況があったのです。

この時期から、警察が強化されて、民権運動弾圧のために、いつでも抜いたら武器になる刃のついたサーベルを下げるようになっていたということです。その恐い巡査に対して、猿沢池の付近では人々が一斉に拍手を打って自分達の意志を示したのです。

「人を以って神とするは警察の許さぬところである」と言っても、政府こそ人を以って神としている張本人なのです。

教祖は教祖ご自身を、神の社であると言われているのです。「理が神」です。理を心に治めた者が神の社であり、神の社としての教祖の言葉を、神の言葉と言われました。そこで人々は「神さん、神さん」と呼んだのであり、教祖が自分は神であると言っていたのではありません。しかし、警官からは、「犯罪者を神の如く拝するとは、政府をないがしろにするものである」という言葉が出たのでしょう。政府が犯罪者としている者を神と仰ぐ、ということに対する弾圧だと思います。

教祖を出迎えた人々は、70年安保の時に改築前の新宿西口広場で活躍したフォークゲリラのように、その意志を拍手で表わしたのです。こちらでフォークソングを歌いだすと、機動隊が規制に行く。すると反対側の方で歌声が上がったのです。明治17年の時には、まだまだお道の人達にも土性骨が残っていたようです。

明治17年8月にも教祖は奈良監獄署に御苦労下されました。この時の記録が『巳決囚名籍』として残されていますが、人間中山みきの具体的なイメージを伝える資料が殆んど伝わっていない現在にあっては、これは貴重な資料ということができます。順を追って見ていきましょう。

まず、住所、氏名、族籍、出生地、年令、職業、家族構成といった、いわば身上調書が出ています。それに続いて、「刑名及ヒ宣告ノ月日 裁判所の名称」及び「収監ノ年月日」の項には、「拘留12日 明治17年8月18日 奈良警察署丹波市分署ニ於テ宣告。 明治17年8月18日午后第3時入監」とあります。

この日、教祖はいったん、丹波市分署に拘引され、いわゆる即決裁判によって12日間の拘留が決まってから、奈良監獄署に送られたという様子がうかがわれます。

また、判決の理由は、「違警罪第1条第9項ヲ犯シタルモノ」となっています。違警罪とは現在の軽犯罪に相当するもので、拘留や科料がその罰として科されることになっていました。

当時の法律によれば、違警罪の拘留は10日間までとされていましたが、再犯やいくつもの罪を重ねて犯した場合には、12日間まで延長することが出来ました。教祖の拘留が12日だったのは、再犯であることによると記されています。

ここまでが法律的な記載ですが、その後に、教祖のいわば身体検査の結果が記されています。

身体
長四尺六寸

容貌音声
面体 丸キ   鼻  高  
眉毛 ナシ   口  常
目  常    面色 白キ
目  細キ   音声 常
歯一枚存ル    頭髪 白キ 
鬚髯 ナシ    長所  (空欄)
左手 ナシ    右手 ナシ
左足 ナシ    右足 ナシ  
痘痕 ナシ

ここに記されている「常」とは、病気に罹っていず機能が正常という意味であり、両手両足の「ナシ」は異常なしということです。

教祖の身長は、4尺6寸とあります。1尺が約30センチですから、およそ1メートル40センチということになります。「教祖はすらりとしたお姿であった」と伝えられていますが、現代人からみれば「すらり」という表現は、この数字からは俄かには信じ難いのです。もっとも、幕末から明治にかけては、日本人の平均身長が最も低かった時代といわれています。当時の男子の平均身長が5尺(150センチ)そこそこであったことからみて、教祖の身長は決して低いものではなかったと思われます。

また、歯は一本しか残っていなかったのでしょう。これでは監獄署から支給される弁当は食べられません。それで、お屋敷では柔らかく炊いたご飯と十分に火を通して炊き込んだおかずを詰めた弁当を準備し、年若き真之亮や弟子達は奈良までの道程を空駆ける思いで、それを教祖の下に運んだことでしょう。一枚の資料が私達を教祖のお傍に誘ってくれる掛け橋になってくれます。

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