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中山みき研究ノート2-7 貧に落ちきれ

貧に落ちきれ

こういったことから『稿本教祖伝』第三章、「みちすがら」を検討し直してみましょう。 最初に出てくるのは、

…親神の思召しのまに/\、『貧に落ち切れ』と、急込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困っている人々に施された…

『稿本教祖伝』

ということですが、「貧に落ち切れ」とは、みかぐらうたにもおふでさきにも書いていないし、本席の膨大なおさしづにも出ていません。教祖が言われたとはとても思えません。 

また、嫁入りの時の荷物を始め、いろんな物を施したというのですが、教祖が嫁入りの時に持ってきた蒲団は、おはる・・・が櫟本の梶本家に嫁ぐ時に持って行き、さらに、おはる・・・の娘で初代真柱の姉に当たるたけ・・が吉川家(櫟本駅のすぐそばにある分教会の脇の家)に嫁入りした時に持って行きました。 嫁入りの時の荷物を次々と施して何もなくなったという事実は、この蒲団がそのまま受け継がれていることなどからみて、なかったことなのです。 また、

…善兵衛の役友達である別所村の萩村、庄屋敷村の足達、丹波市村の上田などの人々は、寄り集まって、中山の家は、何時行っても子供ばかり淋しそうにして居て、本当に気の毒や。…

『稿本教祖伝』

と、教祖が何もしていなかったように書かれていますが、この人達が日記に書いていたわけでもないから、これはフィクションとしか言いようがありません。

善兵衛が死ぬまで、教祖は説得することに努力されました。妻が夫に「女松男松の隔てはない」というのですから、なかなか聞いてはもらえません。夫にしてみれば、女房の尻に敷かれているなどと言われてたまるものか、と抵抗します。それでも、善兵衛は周りから冷やかされました。そういう状況が役友達の人に「善兵衛さんも尻に敷かれて、二本棒や」と言われていたことでしょう。

また、この時期に教祖は、「家形を取り払え」とか「家財道具を売り払え」と言われたとあります。しかし、明治14年に中山家から丹波市警察署に、経済的問題についての上申書が出ています。これは秀司が死んだ後、まつゑ・・・が出したものです。その文書によると、善兵衛が生きている頃は相当な百姓であったが、善兵衛が死んで二年程たった後、秀司が米商いや綿商いをして、それで損失を生じて疲弊したというように出ております(注=『復元』30号239頁。おさしづ 明治26〈1893〉年2月6日 。櫟14)。善兵衛のいる時には、別段、田畑も減らなかったのです。 また、

安政二年の頃には、残った最後の三町歩余りの田地を、悉く同村の足達重助へ年切質に書き入れなされた。

『稿本教祖伝』

とあります。しかし、これも最初から三町歩程しかなかったのですから、「最後に残った」という言葉が余計なのです。 丹波市警察署に出した文書には、中山家の田地は二町歩なにがしという数字が出ています。実際に物を施したために、貧乏したとか、家を売ったという記録はありません。続いて『稿本教祖伝』には善兵衛が教祖に刀を突き付けて、

憑きものならば退いてくれ、狂人ならば正気になれ。と迫った

『稿本教祖伝』

とあります。

教祖百年祭に出来た団体バス乗降場に面する所に神田こうだ神社の小さな社があります。 明治16年に雨乞いづとめが行なわれた所です。 この神社は記紀神話と深い関係があります。 神武天皇の東征のとき、熊野に上陸した天皇軍は熊の毒気にあたって正気を失ってしまいます。それを高天原で見ていた神様が、これを救おうと、剣を下界に投げ下ろしました。すると、それが高倉下たかくらじという人の家の倉の棟に突き刺さりました。 高倉下はそれを持ってカムヤマトイワレヒコノミコト、後の神武天皇の所に持って行きます。 神武天皇がこの剣を持つと、軍勢は皆正気に戻って、再び進軍を開始した、という神話があります。 この高倉下を祀ったのが神田神社であり、その剣を祀ったのが石上神宮です。

剣の威徳によって正気に戻るという伝説の神社が三島村にあるということは、こういう話が物語として紛れ込みやすい地域ということが出来ます。 善兵衛が本当に刀を抜いたとしても、この伝説が頭の中にあってのことでしょうし、中山家が刀一本ない家であったとしても、そのくらいの話は、簡単に作られたことと思います。

これは、芝居としては非常に面白い場面になります。教祖伝の芝居がたくさん作られた時に、こういう芝居の場面が文字になって教祖伝に織り込まれ、そのまま残ってしまいました。教祖が井戸や宮池に飛び込もうとしたことなども芝居の脚本から残ったものです。教祖50年祭の頃、教祖劇が日本中で興行されました。そこでは、赤衣を着た教祖が井戸に飛び込もうとすると、「鍋島の化猫」に見えない糸で引き戻される女中のように、身をよじっている様が演じられていました。

二代真柱は、女中おかののことや怠け者の茂助を感化したことなどは、全て芝居の脚本に書かれたものが残ったもの、と言っています。困難な状況の中から教えを確立し、通り切られた教祖が、周りには理解する者がなく、ひどい迫害や邪魔だてがあったからといって、池に飛び込もうとしたなどと考えるのは全く教理を理解していない人の憶測であります。作者は、死んだ方がましだと思えるような迫害の中を教祖は通られたのだ、と誉めているつもりなのです。しかし、それでは、教祖の理論は少しの迫害でも死にたくなってしまう程のものであった、ということを意味していることに気が付いていないのです。結果として、けなしているのと同じです。

天保11年、教祖44歳の時には、「をびやためし」が行なわれています。しかし、これは教祖が流産したというだけの話です。 妊娠7カ月目ですから、流産ではなく、早産になります。 多分、死産であったろうと思われます。

神懸りで神の社になられた尊い方が、性行為があって妊娠し、それも満足に生まれずに死産となった、などというと、何かいけない事のように思えて、何とか恰好を付けるために、「をびやためし」という表現をしたのでしょう。

しかし、教祖が神の社になったといっても、世界だすけの神の心を我が心とする、という心定めで通られたということなのですから、人の妻として互いたすけ合いの道も通れば、性行為もあっただろうし、妊娠もごく当然のことなのです。

当時は、高齢出産になれば、子供も順調に生まれず、早産、死産となることも数多くあっただろうと思います。それでも別段、身体には差し障りはなかった、ということでしょう。

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