見出し画像

中山みき研究ノート3-10 高山布教

『稿本教祖伝』によれば、明治7年陰暦10月のある日、大和神社に対して教祖の方から問答を仕掛けておられます。しかし、この10月ということには問題があると思います。10月以前のおふでさき、、、、、には、

けふの日ハなにがみへるやないけれど
八月をみよみなみへるでな
 (五 56)

みへるのもなにの事やらしれまいな
高い山からをふくハんのみち
(五 57)

と記されています。陰暦8月には、高山に対してはっきりとこの道の理を教えると宣言されているのです。さらに、大和神社の神職や守屋神社の神職の話を総合すると、この問答は8月に行なわれたものと考えられます。

この8月に教祖はおふでさき、、、、、三号と四号を仲田儀三郎、松尾市兵衛の両名に持たせて大和神社に問答にやっておられます。両名はそこで教祖の言葉通りに「どういう神様ですか」と聞いたと言います。しかし、本部の資料ではその時、「神様のお姿を尋ねておいで」と教祖が言われた、となっています。神様のお姿とは御神体のことなのです。

仲田、松尾の両名と問答をしたのは、大和神社の神職である原伊勢守橘朝臣忠慎という人で、旧幕時代は奈良の大乗院の諸太夫でありました。大乗院の門跡は皇族であり、そこに仕えている者は公家扱いです。この公家に仕える侍が諸太夫です。幕末に神職となり原伊勢守と名乗っていたのですが、明治16年からは鏡作かがみつくり神社の神職になり、その子孫が今もその神社に続いています。

この人との問答の中で両名は、神様の神徳と御神体を問うています。これはどういう意味を持つのでしょうか。

大和神社の御神体は、三社ある祭神のうち、中央の大国魂神オオクニタマノカミは、八尺瓊ヤサカニ、つまり勾玉のことで、王家の財宝の象徴です。右側の社殿は八千矛神ヤチホコノカミといい、御神体としては広矛が祀られていました。左側には御歳神ミトシノカミがあり、御神体は八握厳稲ヤツカイツシネといって稲でした。これらの神々が大和神社に祀られた謂れは、記紀にある国譲りの神話と深くかかわっています。

古代日本(やまと)には有力な王であった大国主神(大国魂神)がおりました。いわば国王です。そこに高天原という、多分、出雲や九州に近い、海を越えた外国 (おそらく朝鮮半島)からの使いが「この国を譲れ」という交渉に来ました。 天皇家の祖先である天照大神がこの国を接収する時に「豊葦原五百秋とよあしはらちいほあきの瑞穂の国は、これ我が子孫の君たるべきくになり」と言ったことになっているから、この意志を持った交渉だったのでしょう。

最初の使いは天菩比神アメノホヒノカミでしたが、出雲に住みついてしまい、何の報告もしないで三年が過ぎてしまいます。その次の使いは天若日子アメノワカヒコでしたが、これも大国主と暮らして8年が過ぎてしまい、高天原からの職務を忘れたのか、という咎めに対しても反抗的であったことから、処分されてしまいます。次に建御雷神タケミカヅチノカミ布都主神フツヌシノカミとが出雲の浜にやって来て交渉しています。この時、浜に剣を刺し立て、その上に座して「この国を奉れ」と言ったのですが、 これは、武力を背景に「この国の王位を渡せ」と迫ったことを意味しています。

大国主は、ここで戦ったら民が傷付き、血を流すことになるだろうし、収穫物や生産物も焼かれて失われるだろうと憂慮し、自分が位を退くことを決意したのでした。その時、私には後継ぎの子がいるから、その意見も聞いてくれ、というと、二人の神は浜ですなどりをしていた事代主神コトシロヌシノカミに「既に父王は位を譲った。 あなたはどうするのか」と尋ねたところ、「それでは、私も奉ります」と言って身を隠したのです。

民の安全や豊かな暮らしのために、いよいよ位を譲るという時、自分の王位の象徴としていた広矛を二人の使者に示して、「私はこの矛をもって、今までこの国を治めて来た。私がいなくなっても私の象徴であるこの矛を大切にするなら、むら々のヒトノコノカミ達は新たな権力者に従順に従うことでしょう。もしも、この矛を粗末にするようなことがあれば、皆々は反乱をするでしょう」と言ったのです。

そこで、後に海を越えて渡って来た征服王朝である天皇家の先祖達は、高天原の王の象徴である鏡と、この国の元の王の象徴である矛を皇居の宮の同じ床にいつまつることにしていました。 それが、記紀によれば、第十代崇神天皇の時に王権が拡張されて、祭儀は宮廷の外に出されることになり、鏡は笠縫の邑に皇太神宮として祀られ、矛は大和神社として祀られたのです。

こういう歴史から、大和神社では旧国王の大国魂神を八尺瓊の勾玉で現わし、中央の社殿に安置し、右にその象徴であった広矛、左には年々収穫の御恵みを下さる神だから、稲をその御神体として祀っていたのです。 征服王朝はそのまま君臨して毎年、税金を持って行くのに対して、ここに祀られた元の王は人々の安全と豊かさを守ってくれる福の神であるとして、大和神社では称えていたのでした。

しかし、明治3年の大教宣布の詔を承けて、明治5年には大教院制度が出来、続いて奈良の紀州屋敷跡に奈良中教院、そして、小教院が大和神社に置かれてしまったのです。小教院になれば、天皇家の尊厳を教えなければなりません。そうなると、この国譲りの神話は全くふさわしくなく、御神体も適さないということになります。

明治7年6月23日には、大和神社では御神体を取り換える儀式を行なっています。昔からの御神体は古代に火災のために焼けてしまったとして、新たに御神体を下げ渡してくれるようにと、新政府に願い出ているのです(注=『復元』32号、336頁。 櫟148)。

その結果、八尺瓊の勾玉は玉一粒に、戦争放棄の象徴であった広矛は天皇家の三種の神器の一つであるところのまつろわぬ者は平らげるという剣に、そして、稲に変わって実りを司る天照大神の象徴である鏡に、それぞれの御神体を換えたのです。

征服王朝である天皇家よりも、民のために位を退き身を隠してくれた福の神の神徳を称えていたのが大和神社の神職だったのです。 ところが、政府の圧力によって、今までとは反対に三種の神器を以って君臨する天皇家の尊さを説かなければならないという羽目になってしまったのです。

教祖が問答に及んだのは「八月をみよ」「高い山からをふくハんのみち」というおふでさき、、、、、が書かれていることから見ても、8月の頃と思われます。

「今まで神主さんは天皇家と大国主とどちらが偉いと言っていたのですか」

と恐らくここまで二人に聞かれたことでしょう。これには、神職の原伊勢守も全く問答に詰まってしまいました。

やり込められて言葉を失った神職は、国家の方針に文句を言うのは、あの難渋だすけを説いている庄屋敷の婆さんだとして、直ぐに石上神宮に応援を求めたのです。

石上神宮の祭神は布都主命フツヌシノミコトで御神体は剣であり、国譲りの時に天皇家の軍使となってやって来た功労者でもあります。もちろん、天津神系だから、そこの神職は天皇家の尊さを説くのに少しも怯むことはありません。

石上神宮は中山家のある庄屋敷村を配下に治めている神社でもあることから、その神職が教祖の所にやって来ました。これが、陰暦10月のことではないかと思われます。

石上神宮の神職がお屋敷に問答を仕掛けにやって来た時、 秀司が応対に出ましたが、教祖は大和神社でのことを秀司には伝えていなかったようです。秀司にしてみれば、天皇家の先祖を天輪王明神として祀っているのだし、何も文句を言われることはない、と思っているので、「何を言っているのか分からん」と、要領を得ないやりとりが交されます。その時に辻忠作が「大和神社に行った者がおりますから、お会い下さい」と話を引き取るのです。

この時、教祖は衣服を改めてお会いになったと伝えられています。 多分、 紋付きを着られたのでしょう。 その紋付きには、当時、三ツ菊の紋が付けられていた、と言われています。 この三ツ菊が菊を三ツ寄せた紋なのか、あるいは後に教祖がつとめ人衆の紋とされた十二弁の菊の紋が三ヶ所に付いたものか、よく分かりませんが、いずれにしても菊の紋の付いた着物で神職達に会われたのです。

慶応4年、つまり明治元年から、菊の紋は天皇家の紋であるとして人民が使うことは禁止されていましたから、神職は当然、追及してきます。大和神社では神話の問題で「神主が節を曲げたのか」と言ってやり込められたのですから、石上神宮の神職達は天津神系の神社であることを盾に、神話の上で逆に論破しようと勢い込んでいたのです。

教祖は、「私が伝えたいのは、人間の元初まりと、これから人間がどう生きるのかという真実の話です」と話されたことでしょう。しかし 、『古事記』『日本書紀』は国家の基本であり、神職達にとってはこれを学ぶ国学、あるいは皇国学が最も基礎的な学問となっていました。神職達は、自分達が学んでいる学問を嘘だというのか、と詰め寄るが、教祖は、記紀神話などは人間に知恵も備わり、文字に書かれるようになってから出来た話であって、真実の歴史ではない、と言われました。

菊の紋を付けた教祖が天輪王明神を背にして、自分も同じ親神の子である、と言えば、天皇やその祖先の神々も人間だというに等しいことです。 同じ人間であれば、菊の紋を誰が使っても良いのです。

どんな神職でも、天皇の先祖が雲を掻き分けながら高天原から降りて来た、などということを信じてはいないのだから、こういった教祖の説明には返す言葉がなくなってしまいます。

それで、石上神宮では、中山みきは国の方針に従わない、と警察に訴えました。警察では直ぐに、つとめ場所に祀っていた天輪王明神の祭祀用具を没収したのです。秀司が国の方針を背景にして、つとめ場所に祀った国家の神でした。教祖はそれを家族内の力で排除することはせず、教祖と国家とのそれぞれの基本方針をきちんとただして、国家の力によって国家の神を取り払うという方法を取ったのです。

明治7年12月23日(陰暦11月15日)には、国の出先機関である県庁から「取調べをするから山村御殿に出て来い」という呼び出しが来ました。 その時、お供に加わった者5名は教祖の身を思い、必死の覚悟を決めていました。その途中、教祖は転ばれて下唇を怪我されたが、下駄の鼻緒が切れても縁起を担ぐ人達の中にあって、教祖は「下からせり上がるのや」と仰せになり、そのまま山村御殿に向かわれたのです。

この時も、菊の紋が付いた着物を着ておいでになったと思われます。山村御殿での問答でも「転輪王という神は古事記・日本書紀を基にする神道にはない」というのに対して、教祖は「国家が神と言ってはいるが、人間の先祖でしかないその人達の中に、この世を初めた神である転輪王の名があるはずはない」として、「天皇もその先祖の天照大神も親神の子、私達百姓も親神の子、一列は兄弟であります」と答えられました。

しかし、これによって教祖の教えは国の方針とは違うという判定が下されて、今度は奈良中教院に信者の総代達が呼び出されました。 そして、教祖の教えを布教してはいけない、と厳命されるのです。

それ以後、天皇の先祖である支配者を神と言うのなら、私が神の社と言えば支配者の心を持つ者と誤解されるとして、それ以後のおふでさき、、、、、では、教祖の立場を、神の社から、月日の社と改められ、神という言葉を使わなくなったのです。そして、この3日後の陰暦11月18日から赤衣を召されたと伝えられています。

3-9 惟神の道 ←
第3章 教祖の道と応法の道
→ 3-11 赤い着物


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?