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櫟本分署跡保存会とは

下の文章は立教142年(1979)2月25日に櫟本分署跡保存会が発足した際、代表の八島英雄が発表した文章です。保存会の自己紹介代わりに、掲載させていただきます。


教祖最後の御苦労の場所—「櫟本分署跡」

教祖最後の御苦労の場所

櫟 本 分 署 跡

89歳の天理教教祖中山みき様は、ここ櫟本分署に、立教49年(1886・明治19)2月18日から12日間拘留されました。

教祖が度重なる弾圧を受けたのは、明治政府が強行した天皇制軍国主義教育に対して、あくまでも反対されたからです。

立教33年(1870・明治3)、明治政府は大教宣布の詔を発し、立教35年(明治5)には大教院制度を、翌年には徴兵制を施行して、天皇が世界を制覇するためには、国民は命を捨てても戦うべきだという、力の支配を当然とする価値観を、徹底的に国民に教育しようとしました。この教育方針の基になったのが、『古事記』『日本書紀』の建国神話です。

教祖は、この天皇制軍国主義に対して、これでは世の中は戦争のるつぼになってしまう、皆が高低なくたすけ合う陽気づくめの世にしなければいけないと、明治7年、国の教育機関であった小教院、大和神社に申し入れました。

そして、元始まりの話を説き、たすけ合いの生き方を示すつとめを教え、どんな世の中になっても、この世を治める道は人をたすける心の実践しかないことを筆に記し、身をもって示されたのです。

《教祖最後の御苦労》

この建物は、立教49年(明治19)頃、大阪府奈良警察署櫟本分署として使用された場所です。

ここで、天理教教祖中山みき様は、立教49年(1886・明治19)2月18日(陰暦正月15日)から3月1日まで、12日間に亘って御苦労くだされました。

教祖は、3日間の取り調べを含む、12日間の拘留、仲田儀三郎・桝井伊三郎の両名は10日間の拘留となったのです。

おぢばに参拝した信者さん達が、お屋敷の門前の「とうふや」という宿屋の二階で揃っておつとめをしたことがきっかけでした。

西側の火の気のない板の間で、梶本ひささん、唯一人を付き添いとして、89歳の教祖は、差し入れの白湯の他は何一つ召し上がることなく、昼は端然と座り通され、夜は黒の綿入れと二枚の座蒲団を夜具の代りにして、下駄を枕にお休みくだされた、教祖最後の御苦労の場所です。

その年は30年来の寒さであったと伝えられ、当時56歳であった仲田さんは、釈放された後患いとなり、6月22日死去されました。

このことからも、当時の状況は言語に絶する厳しさであったことが推察されます。

《天皇も我々も同じ魂》

教祖がこのように弾圧されたのは、明治政府が国をあげて強行した天皇制軍国主義教育に対して、教祖があくまで反対したからです。

天皇家の先祖は国家最高の神であり、その子孫である天皇はこの世で最も尊いお方であるという、政府の教育方針に対して、教祖は、この世のありとあらゆるものは、天皇の先祖といえども、互いにたすけ合って一人残らず喜べる世界を創るための道具衆なのだと言われ、つとめ人衆に天皇の先祖の神名をつけられたのです。

また、古事記・日本書紀を基にして、天皇が力で世界を統一することを理想とする八紘一宇の神話を政府が教えたのに対し、教祖は、元始まりの話を通して、人間はすいきやぬくみという様々な働きが補い合って、一寸にも満たない水中の小さな生き物から始まったのだ、神様はこの生き物を高低なく九億九万九千九百九十九、一遍に生み出し、陽気ぐらしをするようにとの思いで、長い時間をかけて育てて来たのだと教えられました。

さらに、天皇もお百姓も同じ魂であり、平等な人間であって、どんな悪い君主にも黙って従えという教育は間違いであるとおっしゃったのです。

おさしづの前書きに、

「このやしきに道具雛型の魂生まれてあるとの仰せ、このやしきをさして此世界始まりのぢば故天降り、無い人間無い世界拵え下されたとの仰せ、上も我々も同様の魂との仰せ」

明治20年1月13日

と、記されてあり、この三ヶ条が警察の取り調べの最も重要な点だったのです。

このようなことを説いてはならぬという警察側に対して、教祖は、どんなに迫害されても教えを説くことはやめぬと頑張り通されたため、厳寒の最中、櫟本分署に拘留されるということになったわけです。

《この背に教祖を背負って》

そして、釈放の時には、教祖は「端座して見張りの巡査にお菓子を買うてあげなさい」と言える状況ではなくなってしまっていました。

和爾分教会の初代会長、冨森竹松氏が晩年に、次のような話をされたと伝えられています。

私は、教祖が釈放になるというので、一番にかけつけたのです。そして、教祖をお迎えしようと思って中に入ったところ、風を避けるためと思うが、事もあろうに、教祖は押入れの中に寝ておられた。そこで、おひささんがお仕えしお守りしていた。釈放というのに、教祖は立って人力車にお乗りになることもできないので、私が押入れに寝ておられる教祖を背中に背負って、人力車にお乗せ申したのです

難渋の人の幸せを説く者は消してしまえという凄まじい弾圧が、天皇制軍国主義を国是とする明治政府によって行なわれたわけです。

《一人の善が強いか悪が強いか》

このように、教祖の身体はご自分では立ち上がれないほど弱ってしまっておられましたが、それにもかかわらず、教祖はこの釈放の時に次のような力強いお言葉を、出迎えの人々におかけ下さっています。

一時とび出たところ、善悪わけに、世界の人百人、たとえば九十九人まで悪、一人だけ善、一人の善が強いか悪が強いか、世界少し見えかけてある。

(復元37)

今の世界は百人の内九十九人までが、力ずくで世渡りをし、支配者に仕えることを良しとしている「悪」なのです。けれどもこれからは、互いにたすけ合って、高低なく一人残らず喜ぶ世界を創ることが天理だということを学んだ人間が、次の世界を創っていくのだ、この一人の《善》が強いのだから、今は九十九対一であっても、次の時代は必ず明るく変わってくる、良く見ていなさいという意味です。

この力強いお言葉をくださった教祖は、しかし、櫟本分署から帰られた後、お屋敷から外へ一歩も出られることはありませんでした。

そして、再び廻り来た極寒期、一年前に逮捕された日と同じ2月18日(陰暦正月26日)、百十五歳定命と言われた教祖は25年命を縮めて、90歳で身をお隠しになったのでした。


(注)本文中の教祖の年齢は、教内の人々に馴染んでいる数え年で記述しています。


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