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中山みき研究ノート4-5 教会公認運動

明治17、18年の頃には、お道が伸びるに従って、官憲の迫害も一層激しくなってきたことから、各地方には、何とかして合法的に人を集めることの出来る教会を設置しようという動きが出て来ます。

これを『稿本教祖伝』の記述に沿って見て行きましょう。 まず17年のこととして、

当時、人々の胸中は、教会が公認されて居ないばっかりに、高齢の教祖に御苦労をお掛けする事になる

ので、

4月14日には、お屋敷から山本利三郎、仲田儀三郎の二人が教興寺村へ行って、この事を相談した。同じく18日には、大阪の西田佐兵衛宅に、真之亮、山本、仲田、松村、梅谷、それに京都の明誠組の人々も加えて協議した。が、議論はなか/\まとまらず、一度お屋敷へ帰ってお伺いの上、よく相談してから、方針を決めようという事になった。

とあります。

京都の明誠組は、心学道話の組織でした。心学道話というのは、武士は武士らしく、農民は農民らしく、それぞれ分を守って努力しなさいという教えです。

京都の明誠組は、後に河原町を中心とする斯道会に変わっていくのですが、この人達が、お道を聞いて入信し、組織はそのままで、お説教の内容だけを変えていたのです。

このやり方ならば、どうにか弾圧を避けられるだろうと、大阪でも明治17年5月9日に、梅谷四郎兵衛を社長として、心学道話講究所天輪王社の設立を大阪府に出願しています。大阪府からは、「書面願之趣指令スべキ限二無之依テ却下候事」という回答を得ましたが、これは許可を受けなくて も、やってよろしいということです。それで梅谷四郎兵衛は大阪順慶町に天輪王社という看板を掲げました。後の船場大教会です。この出願の仕方は表面は良民を装って、実際は反体制というゲリラ的方法でありました。

お屋敷では、当時、「豆腐屋」という宿屋が現在の信者詰所のような機能を果たしていました。「豆腐屋」は、村田長平という人が明治の初めに目が見えなくなり、仕事が出来なくなったことから、教祖がお屋敷に引き取り、野良仕事の代わりに豆腐を作らせたのが始まりです。その後、お屋敷から外へ出て、すぐ近所で豆腐を作りながら宿屋も営業していたのです 。

この頃にはおぢば、、、にお参りに来る人達も増えてきたので、規模が拡張され、大棟二つを並べるまでになっていました。その一棟は今でも水鏡寮(天理大学女子水泳部の合宿所)の一部に使われており、もう一棟は治道大教会の付属屋に移築されてそのまま残っています。とても大きい宿屋で、休憩ならば一棟で300人くらい収容できたようです。

この頃、北炭屋町では天恵組一番、二番の信者が中心となって、心学道話講究所が作られ、その代表者は、竹内未誉至、森田清蔵の二人であった。九月には、竹内が、更にこれを大きくして大日本天輪教会を設立しようと計画し、先ず、天恵組、真心組、その他大阪の講元に呼び掛け、つゞいて、兵庫、遠江、京都、四国に迄も呼び掛けようとした

竹内未誉至は、大阪府の刑事だった人らしいのですが、自分が口をきけば大阪府の許可は得られるからと、広く皆に呼びかけたのです。

しかし、その時の許可の受け方は全く神道教会そのものなのです。天皇家の先祖を祀り、産土神や、天神地祇、歴代皇霊といったものを全てひっくるめて祀ろうとするもので、これならば政府が許可するに決まっているというようなものでした。全国から人が寄っているお道の動きを察知して、 中山みきの弟子達を自分の傘下に組み入れて講金でも取ろうという考えであったようです。いわば政治ゴロが天理教の信者をまとめようとしたのです。

その後も人々は教会公認を急ぎ、「豆腐屋」に教会設立事務所を設け、明治18年を迎えます。

本格的な教会設置運動の機運はこの頃から漸く動き始め、この年3月、4月に亙り、大神教会の添書を得て、神道管長宛に、真之亮以下10名の人々の教導職補命の手続きをすると共に、4月と7月の2度、大阪府へ願い出た。

最初は、4月29日(陰暦3月15日)付で、天理教会結収御願を、大阪府知事宛提出した。十二下りのお歌一冊、おふでさき第四号及び第十号、この世元初まりの話一冊、合わせて4冊の教義書を添付しての出願であった。

この出願では教祖の教えを全面に出しています。 これが正当な許可の受け方なのですが、考えて見ると、みかぐらうた、、、、、、は世界一列兄弟や人間平等をうたっています。 おふでさき、、、、、四号を持っていったのは苦肉の策で、「唐人ころりこれを待つなり」(注=おふでさき〈四 17〉)という言葉があっても、第三号で「高山の真の柱は唐人や」(注=おふでさき〈三 57〉)と現在の政治勢力を批判していることを知らなければ、国粋主義的な考えにも取れます。もしかしたら役人が錯覚をして、許可を出すのでは、というような思いであったのでしょうが、もちろんこれは却下になりました。これと並行して、

教導職補命の件は、5月22日(陰暦4月8日)付、真之亮の補命が発令された。つゞいて、同23日付、神道本局直轄の六等教会設置が許可され、更に、その他の人々の補命の指令も到着し、6月2日(陰暦4月19日)付、受書を提出した。

天理教会が神道本局の部下教会として設置されたのです。教会設置は明治21年4月10日、東京府の許可を得たことをもってすると考えられていますが、実際にはこの時に発足したのです。

天理教会の会長になる真之亮は、22日に神道本局から教導職に補命され、他の人達は認可された天理教会所属の教師として23日付けで補命されています。

この年、四国では、土佐卯之助等が、修成派に伝手を求めて補命の指令を得た

お屋敷は神道本局に教会設置を求めたのですが、他の人々はその地域、地域で人集めの資格を得ようとしており、卯之助等はたまたま神道修成派に入り込むことが出来て、そこで教導職の補命を受けたのです。これが真之亮より早く教導職に補命されていたことから、後に両者の間に行き違いが出来て、教祖の葬儀に駆けつけた卯之助等一行は、田圃一枚隔てた畔道からしか行列を拝させてもらえなかったのです。

何とかして教祖の教えを取り次ごうという点では、神道本局に伝手を求めても、修成派に求めても同じことなのですが、主流派が自分達と違うグループを排除するというのは、信仰の内容にかかわりなく、起こりやすいことです。

「7月3日(陰暦5月21日)には再度の出願をした。 神道天理教会設立御願を大阪府知事宛に提出したのである。 この時には、男爵今園国映を担任としての出願であった」

先に神道本局から部下教会として認められた天理教会が、地方庁の許可を取ろうとしたのです。現在でも教会を設立する時は、まず、お運びをして、真柱から許しを得ます。その後に、都道府県に宗教法人設立の届けを提出するのですが、これと同じようなことです。特に当時は、地方庁である府県の許可の有無は、具体的に言えば警察が人を寄せてはならんと取り締まるか、人が大勢集まれば整理誘導に来てくれるか、という違いがありました。それで、当時、お屋敷を管轄していた大阪府に許可を求めたのです。

この時、神道天理教会の会長には男爵今園国映という人を頼みました。それまでは大抵、世襲の神主が社家として、その神社を守って来たのですが、明治の初めに国家神道が打ち出されると、国の命令で宮司が任命されるようになりました。今園国映はそのとき最初に石上神宮の小宮司に任命された人で、後に大阪の北野天満宮の神主も勤めています。

皇室の藩塀である男爵を会長として仰いでいれば、弾圧を避けることはできるでしょう。しかし、それでは、教祖の教えが警察の弾圧を待たなくとも内部の統制で消えてしまうことになります。

このようにして、教祖には内緒で教会設立の動きは進んでいくのですが、この時期に教祖からは、

「しんは細いものである。 真実の肉まけバふとくなるで」

というお言葉があったと伝えられています。『稿本教祖伝』には二カ所にわたって記されていますが、竹内未誉至や今園国映というような人を会長にしての教会設立を、教祖はお喜び下さらなかったことがうかがわれます。

真之亮は、明治18年で数え年20歳。いろいろな意味で「しんは細い」のです。その細い木に肉を巻いて太くしてくれという言い方は、やゝもすると中山家の当主を守ってくれという言葉に聞いてしまいますが、ここは注意を要します。世襲制擁護の話のように今は説かれていますが、お道の信仰が血統を大事にする世襲制ならば、教祖、秀司の次は音次郎になるはずです。

音次郎は明治14年6月に養子に出されましたが、16年にはすでに中山家に帰って来て、おまさ、、、の子供である中山重吉宅の「厄介」(注=「復元』29号、32頁)となってお屋敷の傍に住んでい ました。中山家の血統を考えるなら、誰がみても養子の真之亮より8歳年上の音次郎に優先順位があります。何しろ大和では他所から来た人は大事にされません。

一方、社会的地位から見れば、男爵である今園国映や政治ゴロの竹内未誉至といった人の方が、神道教会の会長としては強いのです。したがって、世襲的に見ても社会的地位からみても、真之亮を芯とする理由にはなり得ません。

しかしながら、今園国映や竹内未誉至では、たとえ許可を得たとしても教祖の教えを説くことはできなくなるし、音次郎では血統の者ではありますが、たすけ一条の心がありません。そこで教祖は、こかん、、、が育て上げたという出発点を持つ真之亮を、教えを守る人達の組織の長に置こうとされたのです。

神道天理教会会長という、現在の天理教の中で言えば真柱の地位は、教祖から見ると、全ての指導者ということではないのです。事実、教祖の後継者は本席でした。「表だいく」と言われたのが本席であり、真柱は「裏かじや」と言われ(注=おさしづ 明治32<1899>年7月24日。1899年10月3日)ました。もっとも、明治19年に仲田儀三郎が亡くなった時、「錦とみたてておいたのやが」という言葉を残しておられることからみて、この当時、教祖は仲田儀三郎を後継者と予定されていたのではないかと思われます。

真之亮の真柱という地位は「内を治める真柱」なのです。これを学校にたとえると、本席が教える側の長、つまり学長であり、指導を受ける生徒達の束ね、つまり生徒会長というのが真柱なのです。教祖が構想されたのは、生徒会が自主的に施設を管理・運営するという、現在から考えても極めて民主的な組織であったと思います。

「芯に肉を巻けば……」というお言葉には、この学校を巣立った人々がやがては教える側の人となって、教えを取り次いでくれるように、という願いも込められていたのです。

この教祖の願いを承けて真之亮も、神道教会の会長になろうか、教祖の教えを説く会長になろうか、と思い悩んだ日があったことと思われます。

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