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中山みき研究ノート4-8 五ヶ条の請書

さて、4月初旬に神道本局の人達に、大和まで来てくれと頼んでいたのですが、やっと重い腰を上げ、5月28・29の両日、神道管長代理が視察に来ることになりました。一行はまず、大神教会に着きました。神道大神教会の所属教師である真之亮が神道天理教会を作ったという形になっていたからです。

大神神社の鳥居を入って直ぐの所に神道大神教会があります。大神神社が国津神の神社であるのに対し、天津神を祀り、征服王朝である天皇家の尊厳を説くという、大神神社の応法の理の部分を担う所であり、同時に、地域の小教院でもありました。

天理教会は、天皇を生神とし、天皇の先祖を祀るという願書で神道本局から許可されたのです。その通りに説いていれば地方庁の許可が下り、警察は保護を加えてくれるはずなのに、それを捕えて留置したり、会長から視察の依頼が来たりしている。一体何を説いているのだ、ということになりました。早速、天理教会に行って見ようということになった時、大神教会の小島盛可という会長が、

「あのおみき婆さんは天皇を神だなどと説くはずはないから、行けば後々、ご身分にかかわりますよ」

と耳打ちをしました。そこで、ひとまず三輪の茶屋に落ち着いて、酒でも飲んで様子を見ようということになったようです。

真之亮は、あの人達が早く来てくれたら教祖も二度と捕えられなくなるし、私も警察に行かなくても済むのに、とこぼします。それを聞いた山本利三郎は、まさか教祖の教えを止めに来ているとは思いません。真之亮の言うことを真に受けて「私が迎えに行って来ます」と言って飛び出し、人力車の梶棒を引いて神職達を連れて来たと言います。もっとも、自分で引いて来たのではなく、前引きという形で引っ張って来たのだろうと思われます。

神道本局の2人は28日に取次ぎから話を聞いたと言います。つとめ場所には明治18年から神道本局の神様(皇祖神)が祀ってありました。明治16年につとめ場所の応法の理を排除し、ご休息所も出来て、お屋敷は教祖の教え一色になったのですが、それも束の間、再び応法の理の神道教会として、教会設立派の人達が高天原の話をしていました。したがって、古川豊彭と内海正雄という人にも願書の通り、

「天照大神は天皇家の先祖であり、さらにその親の方々が本当の神様です。これを天理大神と称しています」

と説明すると、

「そうかそうか、それでよろしい」

ということになりました。

翌日には教祖にお会いしています。 この時、教祖は寝たままであったか、せいぜい床の上に起き上がられるといった状態であったと思われます。庭にまで降りられたというのはこの時期なのかも知れませんが、一時の危機を脱した頃だったのでしょう。

二人の態度は教祖に話を聞くというよりは、 訊問に近かったろうと思われます。しかし、そんなことで真実の話を止めてしまう教祖ではありません。そこで二人は真之亮を呼び、

「この人は私等神道本局の神主が権威を以っていくら止めろと言っても止めない。この話をするなと釘を刺したところで、人が来れば話すのだから、人に会わせないようにしなさい」

と真之亮に言い渡しました。 そして、その後、次のような五ヶ条の請書を書かせたのです。

一、奉教主神は神道教規に依るべき事
一、創世の説は記紀の二典に依るべき事
一、人は万物の霊たり魚介の魂と混同すべからざる事
一、神命に托して医薬を妨ぐべからざる事
一、教職は中山新治郎の見込を以って神道管長へ具申すべき事
 但し地方庁の認可を得るの間は大神教会に属すべき事

奉教主神は神道教規に依るべき事というのは、日本の国が認めている、 神名帳にある神を祀れということです。この神とは天皇家の先祖のほか、天皇家に国土や娘を捧げたりして国津神と認められているもの、又は、天皇のために忠死して、臣下でありながら特に神と認められたものです。この世を創り、一人も余さず世界をたすけたい神である転輪王などは認められるはずがありません。まして、理が神であるというような教理を神道は認めないというわけです。これは全く櫟本分署で取り調べられた三箇条の角目を、そのまま並べたようなものです。

次が、創世の説は記紀二典に依るべき事。これは国生みや高天原からの天孫降臨の神話を話せということで、つまりは元初まりの話の禁止です。

人は万物の霊たり魚介の魂と混同すべからざる事。人間は虫鳥畜類、八千八度の生まれ変わりを経て、この五尺の身体に育って来たという教祖の話は、現在なら当然のことなのですが、日本神道では認められません。キリスト教でも認められないのは、両者とも奇蹟創造説を採っているからなのです。最初から今のような人間を神が創ったという日本神道では、小さな泥海の中の生き物からだんだんと成長して五尺の人間になったのだから、人間は皆親神の子、人間世界の生き物は兄弟であるというような教えは認めるわけにはいかないのです。

天皇教の基本理念は、哺乳類であるヒトという生き物の中を、神の魂を持つ者と、奴隷の魂を持つ民とに画然と分けて、皇族・華族・士族・平民のそれぞれの分をしっかりとわきまえさせることでした。しかし、教祖は泥海の小さな生き物にいたるまで、この世の命あるもの全てが、親神の守護を受けた親神の子供であるとして、一列兄弟を説いておられるのだから、互いに妥協できるはずがないのです。この平等思想がけしからんというわけで、警察の取調べの内容が請書という形になって出て来ているのです。

この請書に署名したのは中山新治郎、飯降伊蔵、桝井伊三郎、山本利三郎、辻忠作、高井直吉、鴻田忠三郎で、どちらかというと教祖の教えを忠実に説きますと言っていた人達が名を連ねています。 何故、伊蔵や櫟本分署で苦労した桝井、一本気で節を曲げないという山本利三郎や辻忠作までが、こんな転向を誓う文書に署名したのでしょうか。

これは頑として教祖の教えを説くと言い続けている人達に「二度と説きませんと誓え」と迫るための署名だったのです。 最初から教祖の教えを説くことなど重視せず、人を集めてお賽銭さえ寄れば良いと言っている人は、改めて誓わされる必要などないのです。このような人達に「教祖がまた、あの 命にかかわる迫害を受けても構わないのか」と言われると、さすがに書かざるを得なかったのです。

教祖がお出掛けの時、度々人力車を引き、その後も教祖の話を聞いていた人が、昭和になって語った所によると、その日、教祖は、

今まで道を長らく説いて来たけれども、私を助けようとする者は一人もいない。

と嘆かれたということです。

このような状態の中で、仲田儀三郎が亡くなったという知らせが届きました。この時、教祖は、「錦と見立てておいたのやが、もうこの弾圧でぼろぼろにされてしまった」と残念がられたと伝えられています。しかし、五ヶ条の請書に署名を強要されなかった人達や、逆に強要した拝み祈祷派ともいうべき人達は、「錦と見立てておいたのだけれども、それが神様の御意見で命を終えるというのは、よほどの心得違いがあったのだ」というような言葉まで流したと伝えられています。

支配し裁くのが神と理解し、神様にお願いして結構にしてもらおうという拝み祈祷に走ると、こういう言葉に惑わされてしまいます。これでは教祖自身、錦がボロになったどころか、神の社が25年も命を縮めたのは、よほど心遣いが悪かったということになってしまいます。

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