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中山みき研究ノート3-5 天輪王明神

天輪王明神

つとめ場所を教育の場として、人々はみかぐらうた、、、、、、を歌い、てをどり、、、、が心勇んで陽気に行なわれていました。しかし、お屋敷の雰囲気の中には、どこか翳がありました。それは、つとめ場所普請の功労者である飯降伊蔵が、先の大和神社の一件以来、夜にしかお参りに来ないということでした。

そんな中で、 慶応3年7月23日付けで、秀司が改めて吉田神祇管領から祈祷の許可を得ています。

それに先立って、慶応3年6月に庄屋敷村百姓善右衛門(明治になって秀司と改名)の名前で、吉田神祇管領に資格を得るための願い出をする際に、古市代官所に提出した書類が残っています(注=『復元』32号、461~463頁。 櫟15)。これには書き損じがあるので、下書きと思われます。それを見ると、何か格式張った仰々しい願い出の仕方をしています。

こかん、、、が出願した時は、どんな信仰でも簡単に許可を得ることが出来たようで、これは元治元年2月という時代がそうさせたものと思われます。

慶応3年は大政奉還が行なわれた年です。京都は大変血生臭い場所になっていました。坂本龍馬が暗殺されたのもこの年です。京都の公家達を中心とする尊皇派と、江戸の武家方との間が大変険しくなっていた時期です。

嘉永6年頃から興ってきた尊皇攘夷の考え方は、インテリ層を始め多くの人々の間に広まっていました。幕末から明治の初めにかけて流行ったものは「皇国学」です。 これらは倒幕のイデオロギーとして用いられ、やがて天皇を上に戴く体制に戻れと、王政復古が号令されるのです。

時代の先取りをする人は、信仰の世界にもおりました。彼等は後に吹き荒れる廃仏毀釈の嵐を敏感に察知していたのです。 天皇の御代になれば、天皇の先祖を神と崇める神道が主流となるだろうことは自明だったのです。

こかん、、、の許可証を偽物として取り上げた守屋筑前守は、自分が神職であることから、これからは転輪王という仏教系の神名による信仰ではなく、天皇神道の形にした方が国の保護も受け易く、将来は有利だ、ということを時代の先取りとして、秀司達に働きかけました。この辺りから神道色が濃くなって行ったのです。

その頃のことが守屋神社では、「教祖は仏で行こうとしていたのを、筑前さんが神道にひっくり返したんや」という言葉で子孫に伝えています。 これは慶応年間のことなのです。

本部の資料では、転輪王講社という仏教系のものとなっていたお道を、神道に戻したのは明治14年頃のことである、というのです。しかし、守屋神社61代神主・従五位下・森本筑前守大神朝臣おおみわのあそん廣治は明治12年9月3日午前6時に亡くなっている(注=「守屋神社系図」櫟17)ので、そのような指導が出来るはずはありません。

秀司は守屋筑前守の応援を得て、こかん、、、の許可証を取り上げると、かねてよりの念願であった自分を中心とする信者組織を作りあげるために、天輪王明神というものを設立しようと画策しています。この天輪王明神と、教祖がお教え下さった神名である「てんりんおう」とは、読んだ時の音が同じです。極めて紛らわしいのですが、天輪王明神というのは一体どういう神を祀っていたのでしょう。 その設立願書には、

……私方屋敷内に天輪王神鎮守仕信心仕、右天輪王神与申者

国常立尊 国狭槌尊 豊斟渟尊
大戸道尊 大戸辺尊 面足尊
惶恨尊  伊弉諾尊 伊弉冊尊
大日孁尊 泥土煮尊 沙土煮尊

 冊 冊

と十二柱の神を祀るとしています。 この十二柱の神をそのまま祀っている神社が、庄屋敷村の近くにあります。 乙木村を見下ろす山裾、竹之内地内にある十二神社がそれです。

この神社の起源は、この地域に天皇家の勢力が及んで来た時に遡ることができます。この地域には大和の国民くにたみが住んでおり、その中の集落にオトギ某という王が居て、それが国津神となっていました。そこに天津神 (海の向こうから渡って来た神の意)が勢力を及ぼし、国津神を押さえて支配者になったとき、その天津神の先祖を祀った神社がそのままに十二神社として今に伝わっているのです。

この祭神は、まず、オオヒルメノミコトが天皇家の先祖である天照大神です。 その両親がイザナギ、イザナミ、そのまた両親がオモダル、カシコネ、その両親がオオトノジ、オオトノベ、その親がウイジニ、スイジニと、四代の両親が数えられています。そして、その親がトヨクムヌで、これは一人にして一代の神(一人神)であり、その親がクニサズチという一人神、そのまた親がクニトコタチという一人神なのです。

これは日本の神話の中で語られている天神七代にあたります。 天照大神からその親、親、親と数えて七代の合計が十二柱になるのです。 十二神社は守屋筑前守の、いわば縄張りの中にある神社です。

これからは天皇神道なのだから、天照大神とその先祖、十二柱を祀るのが時代の先取りとしては最も良いのではないか、ということになり、秀司はこれに天輪王明神という名を付けて、許可を得るための願書を書き上げたのです。

これは大きな教理の変質です。音は同じであっても、「転」を「天」と書けば、これは高天原の神々、つまり天皇家の先祖を表わすことになってしまいます。 力で民を支配し、奉仕させ、捧げさせる神なのです。

儀式についても、教祖はみかぐらうた、、、、、、を信仰の中心となる最高の儀式としています。それに対して、十二神を祀った天輪王明神では、天津神を招いて玉串を捧げ、貢ぎ物を並べ、そして服従を誓う言葉を述べて、平らけく安らけく生き延びることを乞い願うという、昔から伝わる服属儀礼を儀式とする信仰に変質してしまいました。祝詞のりとに出てくる「かしこかしこみも乞祈こいのまつらくともうす」という言葉がこれをよく表わしています。

教祖はこれを「息の根止めるで」と強くお叱りになっておられます。こかん、、、が難渋だすけを教えて いるのに、それを兄妹にあるまじき行動を取って許可の名義(営業権)を代えようとし、更には、教えそのものも捻じ曲げてしまおうとしたのに対して出された言葉なのです。

しかし、現実には教祖が止めても、をびやゆるし、、、、、、ほうそゆるし、、、、、、のお守りが出され、「このお守りを買えば病気にならないし、安産するのだ」と、全く旧来の拝み祈祷の形に落としてしまったので す。

教祖の目をぬすみ、こかん、、、が反対しても、秀司や忠七達はをびや、、、のお守りを出し、厄病除けのお守りを出し、ほうそゆるし、、、、、、を売り出し、更には「虫札」などという物も後には出すようになりました。また、肥のさづけ、、、、、では、「土三合・灰三合・糠三合を混ぜて、神名を唱えながら播けば、豊作間違いなし」というようなおまじないに落としめてしまいました。

虫札や「肥のさづけ」は、慶応3年のみかぐらうた、、、、、、の後に出されたものと思われますが、 秀司による拝み祈祷の営業が教祖の意に反して進められて行き、それに肩入れし、後押ししていたのが山中忠七一族であり、守屋筑前守という神職であったのです。 それらが吉田神祇管領の許可を受けてからは一層大胆になり、これ以後、教祖との対立が表面化して行きます。

吉田神祇管領から秀司に出された許可証を教会本部は現在、正当なものとしています。これは、守屋筑前守がこかん、、、の許可証は偽物だとしたことが元になっています。この二つの許可証を比較してみると、確かに押されている判は異なっているし、形式、 書式も違っています。

しかし、だからと言ってこかん、、、の許可証が偽物で、秀司のものが本物だということは出来ません。この時期に吉田神祇管領が他の所に出した正式な許可証をみると、その書式、判共にこかん、、、や秀司に出されたものとは異なっています。管領家自身が出している許可証の署名は、神道管領長上 卜部朝臣うらべあそん何某、とあり、書き判(花押)があって、更に牡丹餅判といわれる判が押されていますが、こういう形式はこかん、、、や秀司のものにはありません。当時の吉田神祇管領の許可は、管領家自身が出すそれなりに権威のあるものから、下役がいわば看板料を取って出せるものまで、いろんな種類があったのではないかと思われます。 そして、許可を出したことが吉田神社に記録として残されるものと、残されないものとがあったようです。こかん、、、や秀司の場合も、控えや記録は残されない程度のものであったと思われます。 吉田神社の文書は天理図書館が殆ど全部買い取り、調べていますが、昭和59年までの調査で、秀司の控えはない、ということが分かったということです。

とにかく、この許可証によって天輪王明神が出来ました。しかし、神名だけが将来の天皇神道に備えただけで、実体は、陰陽道や真言密教とも絡んだ、当時の人々によく信じられ、利用されていた修験道と大して変わらないものでした。 天輪王明神という名の下に、お屋敷は拝み祈祷の場として運営されていったのです。

この状況に対して、慶応3年の1月から書き始められ、その年の内に十二下りまで作られたと言われるみかぐらうた、、、、、、、九下り目の中には、

ハッ やまのなかでもあちこちと てんりんわうのつとめする
九ッ こゝでつとめをしてゐれど むねのわかりたものハない

と厳しく示されています。それは、神の社になる本当の信仰とはこのお屋敷に限らず、山の中でも立派に出来るのだということであり、教祖の教えが始まったお屋敷の中であっても、その心が教祖の教えに外れている人達には「こゝでつとめをしてゐれど むねのわかりたものハない」とはっきり宣言しています。

3-4 みかぐらうた
第3章 教祖の道と応法の道
→ 3-6 信仰の目標


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