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八島英雄先生の歩み

櫟本分署跡保存会代表を務めておられた八島英雄先生は、急性大動脈解離のため、立教177年(2014年)10月23日に亡くなりました。以下に先生の歩みをご紹介します。

1929年8月11日、東京都墨田区吾嬬町で本吾嬬分教会初代会長八島松四郎、よし夫妻の四男として生まれる。幼い頃は家にある本では満足せず、近所のお家の本も読んだとのことです。

第五吾嬬小学校卒業後、府立第11中学校(現 江北高校)へ進み、これは府立のナンバースクールへの進学は学校でも数名しかいなかった。戦争中のことで勉強もままならずの状態だった。3月10日の空襲で、最後まで消火につとめたが水が尽き、初代会長の指示で退去。翌日には三升釜にごはんが炊けていた。吾嬬町御殿と言われた大きな神殿を薪にして炊けたご飯を焼跡に来た人に、握り飯にしてわける。その後、神殿普請の材木の支払いなど、空襲で負傷した父松四郎会長に代わり行なう。敗戦後の物資不足の中、お父様の入院、食事の用意も行なう。敗戦後三年で父松四郎の死。


父の死後、修養科入学、卒業、その後、東本大教会中川庫吉二代会長の会長当番となる(19歳)。その折、中山正善天理教二代真柱との出会いもあり、新たにできた天理大学宗教学科へ入学。在学中は天理教学の勉強グループのリーダーだった。二代真柱からも信頼が厚く、東大宗教学科長が集中講義に来た折など、当大学の学生ですと、天理高校校長の御子息、塩谷悟氏と共に二代真柱に紹介され接待に当った。

勉強の片わら、水泳は天理水泳協会登録選手第一号。バタフライと高飛び込みで、関西選手権に出場四位(練習でケガをしたため)。その後ラグビーの選手に転じ、ラグビーの合宿の折の費用は卒業後まで借金が続いたとのエピソードもある。

大学卒業論文のテーマは「種」。三回生の時から用意した。『おふでさき』『おさしづ』の全用語例を調べ、検討して、悪い種は生えないということを書き、教祖の教えは、善因善果、悪因悪果ではないという結論を出した。教授間でも賛否がわかれ、中山正善二代真柱の言葉で卒業となる。

卒業後、この頃本吾嬬分教会の新館の建築を大勢のひのきしんの人と行なう。 その後、福島県の教会復興に布教に従事する。この時の布教のことは単独布教をしようとする人々に、本来の布教とは何かを教えてくれた。

1956年1月、母よしの姪の吉田スミエと結婚。58年に長女英美、その後長男英正、次男英明、次女英子の四人をもうける。

結婚後は新小岩に夫婦で布教に出るが、本吾嬬での信者さんの丹精も引き続く。 

1965年、本吾嬬分教会創立40周年記念団、2月に列車団参 (1800人)、3月にバス18台を出す。 この記録は30年以上やぶられなかったが、本理世分教会の大教会昇格の前月に破られた。

天理大学在学中は紀州の台風の被災地にラグビ一部を引き連れて、ひのきしんに行く。その後、伊勢湾台風、新潟地震のひのきしんに副隊長として参加する。新潟地震の時は、交通事故の後で体温の調節が良くなかったという。この交通事故で、明日目が覚めるかどうか分からない状況で、自分をここまで育ててくれたのに、教祖の話を伝えな いで終わってしまってはいけないと、この事故以後、積極的に教祖の話を伝えるようになった。

1965年11月から66年2月、天理教教会本部修養科一期講師拝命。教祖80年祭直前から年祭期間中。年祭期間は修養科での授業がなくなるので、詰所でも、当時、東本は百人を超す修養科生が居たので、雪がちらつくグランドでのおてふり練習は何年経っても語り草です。神殿での下足のひのきしんの折には、集合時間15分前からお話をする。 ひのきしんだけで、教理の取り次ぎが少ないのを補足する毎日であった。日中は総合 案内所前に立ち、修養科生のひのきしんを見守る。 修養科生は交代で下足番をやっていたけれども、自分は交替なしでずっと立っていたのだと。東本の修養科生が本部の宿舎に行っている。そういうところへ郵便物を届けて、ほんの十分でも詰所へ連れて返って来て、また、送って行ったりした。だから睡眠時間は4時間だった。

1967年3月から68年7月まで、修養科専任講師。教祖伝・男鳴り物担当。

若い男子修養科生から、恐い先生と言われ、また、やさしい先生と慕われる人気の先生であった。 

1967年10月26日よのもと会総会。総裁真柱への答辞に当った八島スミエ夫人に原稿を書き送る。ラブレターは書いたことはないが、これだけは自筆で書いたと言っていた。

今、この時旬に、ひながた通りに、物がなくても人をたすける誠があるから、このように豊かです。

人にばかにされても、人をたすける誠があるから このように勇んで通れます。

また年を取っても、弱い身上であっても、人をたすける誠があるから、この通り勇めます。

たすけ一条の喜びとは私のこの姿ですと、

世界の人に見て頂けるよう、 

うちにたすけたいとの心を高め、 

身体を動かせば行ないを通して、 

ものを言えば言葉を通して、見れば目から目へ火花を散らして、相手の心に、人をたすける喜びの炎を移していけるように、

ほとばしり出るまでの誠をもって日々を通らせて頂きます。


1968年9月より1979年1月まで、東京教区で二代真柱が名付けた「理を求める会」 講師。

これ以降教区布教部及びよのもと会担当者の集いの講師、社会事情問題懇談会(教区長ブレーンとして)のメンバー、等々。本部の事情に通じ、教理にくわしい先生と言われた。 

天理教青年会東本分会で教理勉強会を行なう (女子青年、婦人会も)大教会長の命で『とうほん』誌に「陽気ぐらしのひながた」を連載。これを基に後に『ほんあづま』の発刊 (69・3月) となる。1977年9月第三種郵便物認可をとる。

1969年 青年会東本分会総会。世間で再軍備が取りざたされた頃、天理教はどうなのかという問いから始まった。教祖の教えは反ではない。反戦と言わず、平和行進をした。 

1970年4月号より 『みちのとも』に「私の教理勉強」連載。11月号まで。 教会長でない者の連載は初めてで、肩書きを付けるのに苦労したと言われている。第9回「たましいについて」で、教祖の御家族のたましいは別という永尾廣海道友社社長と意見を異にし、連載は中止となる。

1970年8月 天理教青年大会。東京にある14大教会が総会を返上して青年大会を開き、 九州・関西からも参加者があった。大会の理論指導・松本滋聖心女子大教授と共に行なう。 同日配布のパンフレット「惟神之道とおみちの教理」- 終戦までの国家神道と比較して- (「ほんあづま」20号)を書く。大会の報告を青年会発行「大望」に書く。

1970年9月 北海道青年大会。 宗教学者東大教授笠原一男氏と共に講師。 

1960年から70年「靖国神社国家護持法反対」「政教分離を監視する会」など、宗教(仏、キリスト、諸派) 法律家の集会などにも参加、右傾化する社会現象に対して、過去の神道国家が教 祖の教えを飲み込んで行く過程を説明して、利用されないよう注意をうながし、他宗や法律を専らとする人々の信頼を得た。

仏教系雑誌「ナーム」に「人間はどこから来て、どこへ行くのでしょうか」というタイトルで、教祖の教えに死後のことは説かれていない、生れかわりがない、と書いた。

日蓮宗現代宗教研究所に於ける新宗教セミナーで「天理教の教義と教会の現状」と題して講演をする (1987・5・29)『現代宗教研究』第2号に掲載される 〈現代宗教研究所所報〉。

天理教学研究発表会で「九億九万九千九百九十九についての一考察」のタイトルで発表を行なう。『天理教学研究』に掲載。翌年は「教育としてのつとめ」を発表『天理教学研究』201号)。天理時報特別号に「ひのきしんについて」発表。

YHC(青少年ひのきしんキャンプ)の講師及びキャンプ長。1969年から78年まで。本部ひのきしんセンター主催。高校生を中心に大自然の中で、狭い教会の枠にとらわれないでの教理勉強とひのきしんの実践。

長野県野辺山のキャンプ地で、テントの設営から自分で準備して、地図を読み、今、自分がどこにいるのかを学び、環境に慣れた頃、三千メートル近い八ヶ岳、主峰赤岳の登山を行なう。この間に木陰で、教祖伝の講義などが行なわれた。教区管内に声をかけ、最大70名近くの参加者があった。この時の経験が自分を変えたとの感想が多い。 

YHCの基本テキスト作成にかかるが、櫟本保存を始めたということで、キャンプ長辞任。ひのきしんセンターの係員からは、毎日櫟本へ日参され、講師として参加してほしいとの要請があったが、自分が責任者でなく、責任の所在がはっきりしないのでは困ると、不参加を表明する。 

青年一日修養会のテキスト作成(教理に関してのまとめ役)ー真実の教を求めて―6・4青年一日修養会講師テキスト(ほんあづま4号・72年7月号)。「心一つわが理」(ほんあづま5号・1973年5・6月号)。

この当時、世田谷の本嬬原分教会を朝5時に出て、京王線の二番電車で新宿へ。総武線で浅草橋。京成電車で荒川 (現八広) 駅まで行き、本吾嬬で朝食7時の朝つとめの後、朝席。その後、ある時は東本のおたすけ人講習会、東京教区「理を求める会」、東本と、ある時は、部内教会巡教と飛び回っていた。

1974年 天理教本嬬原分教会長就任。

1975年4月、教祖伝劇映画「扉はひらかれた」の制作に加わり、脚本を書く。『おさしづ』の冒頭部分を現代語訳して分かるようにした。 

1976年 教祖九十年祭。ひもろぎを廃止。以前から玉串などのひもろぎ廃止を提唱。

1976年4月12日〜14日「車いすと大和路へ」前年から実行委員会をつくり、準備をしたが、この時はまだ新幹線は博多開業以前であったので、改札口も狭く、車いすの人が遠距離でかけることもあまりなかった。この時をきっかけに本部にも車いす用のトイレができる。

1977年 東京教区世田谷中央支部長就任。 

1979年1月27日 本部よのもと会、教祖の御苦労を偲び歩こう会。

『ほんあづま』発刊十周年記念行事として、教祖最後の御苦労の場機本分署跡を保存しようとよびかけを行なう。

1979年2月25日 櫟本分署跡保存呼びかけの集い。保存会発足。

1980年 5月から櫟本分署跡講座開始。6月から研修ツアー、史跡見学始める。 9月25日参考館オープン。16ミリフィルムにて「扉はひらかれた」上映開始。

1982年4月 原爆記録映画「人間をかえせ」購入上映。「扉はひらかれた」の前に上映する。 

1983年10月26日 教祖伝資料集配布始まる。

1986年 教祖百年祭。この時、教祖伝連続講座を行なう。後にこの講座を基にして 『中山みき研究ノート』出版。

1986年1月9日付、本嬬原分教会、宗教法人天理教からの被包括関係を廃止して単独の教会となる。天理教本部は八島英雄を罷免。このことについて、山崎潔先生は「トラに翼を付けて檻から放ったようなもの」と言われた。

1986年(昭60) 土地建物明渡請求事件の裁判が始まる。 

1987年1月26日『中山みき研究ノート』出版。櫟本の土地買入れ。3月7日新館上棟式。教祖の教えられた寸法のかんろだいを据える。 9月かぐら面作製依頼。10月から使い始める。

1988年3月30日発行『仏教と日本人⑩ 民衆と社会』村上重良編「天理教の神話と民衆教済」に、中山みき研究ノートでの記述が多数採用された。

1988年(昭668) 代表役員地位確認請求事件を提訴。

東京地方裁判所に、清水国雄元表統領が出廷し、「異端、異説、異安心ではない。櫟本分署跡保存は天理教信仰の根幹にかかわる」と証言する。

1996年(平8) 2月22日判決言渡。双方却下。しかし、名義は戻っていない。

この間に本常一分教会、明朗分教会、豊文分教会、練馬分教会、本嬬武分教会他20数ヶ所近くの、包括法人からの離脱独立の理論的・実質的な手伝い指導に関わる。 

1998年『おさしづ主要人名索引と関連家系図』。

2000年『天理教史関連年齢早見表』。

教祖の教えられたかんろだいつとめをする。 

2002年2月2日 櫟本校区「はにわ祭り」
地域の史跡を訪ねるウォークラリーも行なわれ、櫟本分署跡を解説する講師の依頼を受ける。以降、2008年までウォークラリーのスタンプポイントとして参加、協力する。

2006年6月18日の陽気づくめ講座終了後、これで教祖の教えられた善一元論がまとまると喜んでいた。仏教を始めたのはシャカで、完成したのは教祖中山みき。教祖はおつとめで一元論を教えたと、21世紀の人に分かりやすく説くことができるようになったと言った。

6月24日、腰の激痛に耐えられず、救急搬送される。7月初めから入院。9月初旬退院後2ヶ月動くこと不可の状態続く。やっと動けるようになった2007年1月23日より帯状疱疹。その後帯状疱疹後神経痛の痛みに耐えながら、毎回講座・祭典を休まず、来訪者との談じ合いを行なう。教祖のひながたの顕彰を目指して、かんろだいつとめをして、自分がいなかったら教祖への復元ができないと東京の本嬬原分教会へも帰らず、櫟本で頑張った。

2011年3月、東日本大震災に対して被災地の教授ができない自分は生きている甲斐がないと周囲に言った。4月から櫟本より被災地へ37〜8回も出かける。

2011年8月メモより「たすけて負ける喜び。たすけ人間に出世した(させた)人に囲まれて暮らす安心」 

2012年9月 白内障の手術。眼鏡が不要となる。

2014年9月、来訪者に「来てくれると元気になる」と握手した。いつもおたすけ人をやっていました。

10月15日 トイレに起きた時ころぶ。10月20日来訪者に、久々に理路整然と善一元
論を説く。 調和一元論という方が現代的かと話す。26日のおつとめ講話の準備かと、皆喜んだ。 

10月23日午後2時53分、急性大動脈解離で亡くなる。85歳2ヶ月。


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