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花の名前

「林檎甘いか酸っぱいか(黄)」発売記念こばなし、桂と志緒

昔、中学校の教師がこんなことを言っていた。歴史の授業の時だったと思う。
––––僕は、自分の娘には勉強なんかしなくていいと言ってきた。女の子には、知識より花の名前をたくさん覚えてほしいから。
当然、女子生徒からは陰で「差別じゃん」と大不評だったし、桂も、そんなの別に両方覚えたっていいだろと呆れたが、同時に、花の名前って知らないよなあ、とも思った。桜とかばらとかチューリップとか、脳内の植物図鑑は小学校低学年までに仕入れたデータにとどまっている。けど、花の名前ってどうやって知っていくんだろう。

学校の敷地内にある桜が今年は早く咲き、入学式を待たずに散り始めていた。
「始業式の頃にはすっかり葉桜かな」
『ふーん』
春休みにつき登校しない志緒に電話で報告すると、真っ正直に興味なさげな相づちが返ってきた。ま、高校生男子なんてそんなもんだよな。
「桜、どうでもいい?」
『咲いてればきれいだなとは思うけど、花見とかにこだわる気持ちはわかんない』
「俺も、通りがかったりする時に楽しめればじゅうぶんだけどね。渡り廊下のとこの桜は遅くてまだ三分咲きぐらいだから、始業式でも咲いてるかも」
『あそこ、陽当たり悪いもんね』
「そうそう、校舎に挟まれてるから。で、桜のとなりに木蓮もあるだろ、桜が咲き始めたら木蓮が萎れだすの、なんか寂しいんだよな」
盛りの美しさのまま散っていく桜と違って、木蓮は枝についたまま変色し、衰えていくのも多い。光るほどに白い大きな花がそこにいながらしなしなと縮んでいくさまは、桜の潔さとはまた違う感傷を催させる。季節が移り変わること、時間のスケールが違うだけで、すべての生き物に備わったサイクルだということ。植物は言葉も動きもなく教えてくれる。
『木蓮てなに?』
「えっ」
『どんな花?』
「どんなって……学校に植わってるのは、わりと背が高くて、白い、靴べらみたいな感じの花びらで、いいにおいして」
こっちも別に詳しいわけじゃないから、どんな、と訊かれると困る。顔と名前が一致する程度の芸能人のプロフィールまでは知らない、みたいな。
「木蓮は木蓮だよ。もしくはマグノリア? ポピュラーだから、見れば『ああ、これか』って思うはずだけど」
『ふーん……先生って、花の名前までよく知ってるんだね』
素直に感心され、苦笑いした。
「全然知らないって」
『どうやって覚えるの?』
「どうやって……や、いつのまにか?」
たとえば、公園の花や木についたプレートをチェックしたり、そういう能動的な姿勢はない。本当に「いつのまにか」としかいいようがない蓄積が桂の中にあり、本を読んでいて花の名前が出てきても、ちゃんとビジュアルを思い描けたりする。
「普通に生きてりゃある程度自然に覚えるよ、一般常識として」
『そうかな』
「新学期、楽しみ?」
『……微妙』
「何で、会えるから嬉しいって言えよ」
『今先生が言ったからいい』
あからさまにからかうと、たちまち怒った口調になる。
「そういう問題?」
『それに……絶対、先生が担任じゃないと思うし』
「何で」
『担任じゃないようにしてそう、先生が』
「クラス分けの権限なんかないって。ま、そのへんは企業秘密ってことで」
おやすみ、と電話を切ろうして、ふと疑問が湧いた。
「クラスの面子を選べたら、俺は志緒ちゃんを入れないって思ってんの?」
『うん』
「逆でなく?」
『うん』
志緒の答えには迷いがなかった。すげえな、と思う。何にも知らないのに何でも知ってるんだよ。

始業式の朝、三階の廊下を歩いていて、渡り廊下付近に差し掛かったので下を覗き込んでみた。好天続きだったので日陰の桜は桂の予想どおりに満開で、でも目を細めた先には花じゃなく志緒が立っている。桜の隣で花の頃を終えてしまった木蓮を見上げていた。ところどころ焦げたように茶色くなった花が足元に落ち、かろうじて枝に残っているものも、青い葉の合間でくしゃっと縮んでいる。
志緒と目が合う。
驚いて見開かれた瞳がまだらな花影の中でも鮮やかで、笑うでも声をかけてくるでもなかったが、志緒の中に木蓮の花がインプットされたのは何となく伝わってきた。ああ、これか、と納得している。
桂は、あの教師の気持ちがわかる気がした。花の名前を教える、花の存在が相手の心に咲く、それは人や鳥や魚の名前より、特別なものに思えるから。
花の名前を教える、というのは、何だか誇らしいから。
建物の狭間にも春の陽が射し、光に重さがあるように、それに耐えられないように、桜の花びらが音もなく散っていく。桂は窓を開け、窓枠に腕組みで寄りかかってそれを見ていた。
「あっ、英ちゃんだ」
「おはよー!」
渡り廊下を行き交う生徒が気づいて立ち止まり、しきりと手を振っても、花を見るふりで志緒を見ていた。どう見ても制服を着た生徒でしかないのに、やっぱり、どう考えても特別に好きなのに改めてびっくりしながら。たぶん、志緒も同じ気持ちで桂を見上げ、ただ立っている。
あたたかな風が吹き抜け、一気に花が舞う。桜はいっそう散り、木蓮は揺れた。志緒の代わりに花が手を振っているみたいだった。あかねさす……と夕暮れの和歌が、全然違う情景なのに浮かんでくる。
明るい、春の朝だった。

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