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灰とチョコレート(2017Spring)

※無料配布本の小説再録
「off you go」良時と密と十和子

休みの昼前に起きて窓の外を見ると青ざめた雪雲が黙々と低い空に連なっていて、こんな日には海を見たくなる。

食事も摂らずレンタカー屋に行き、車を北へと走らせた。支局にいる間、自家用車を買おうかずっと迷っていたが、結局、すぐ東京に戻る運びになったから決断しないでよかったと思う。決めきれずに立ち止まっていても、時間が勝手に正解を出してくれることもある。もちろん逆もしかりだ。

二時間ばかりドライブしてひと気のない海岸に車を停める。夏場の、海水浴客でにぎわう貌を今はちらりとも覗かせない。光るしぶきも、青く澄んだ水平線も見当たらず、風に攪拌されて荒く押し寄せる波は無数のあぶくで白く、良時の足下でぱちぱち弾けて何ごとか訴えているようだった。生き物の背骨を延々つらねたような波のうねりは陸でこわれる。歓声に彩られない波音はただひくく重く耳に響いた。

波打ち際ぎりぎりにたたずみ、途中のサービスエリアで買った熱い缶コーヒーを飲んだ。それから、普段はまず手が伸びないのに、きょうに限って欲しくなった板チョコをかじる。甘さと苦さが口の中でごっちゃになった。

海と空も、遠いところで混じり合っている。油彩のようでも水彩のようでもあるまだらな灰色。視界はすべて鈍いグレーだった。この景色がむしょうに見たかった。灰色が好きな、密のことを思い出す。

「何だこれ」
二階へ続く階段を上っていた密が急に足を止め、かがみ込んで何かを拾い上げた。
「踏んだ」
個包装されたちいさなキャンディだった。
「ああ、こないだ節分でまいたやつ」
良時は答える。
「飴まいてんのかよ」
「飴とか、チョコとか。豆より十和子が喜ぶから」
今年は病院じゃなくうちにいたし、体調もよかったので十和子ははしゃぎ、鬼役の父も奮起したため、ばらまかれた量も多かった。正直、妹ももう高学年(通学してないけど)なのだから、という気持ちがないでもないが、短い晴れ間に外出を楽しむように、あのちいさく弱い身体にできるだけたくさんの思い出を詰め込んでやりたい、という親心くらいは察している。

「行事の意味がなくなってる」
「食べていいよ」
「いらねえ」
メロン味(でもメロンと似ていない味)の飴を良時に投げつけると「女中の掃除がいい加減なんだよ」と悪態をついた。
「やめろよ、聞こえたら怒られる。こういうのって、片づけたつもりでも後からぽろぽろ出てくるんだから」
たとえば海に行って、何日も経つのに服や髪から砂がひらめくように。

「密、来てる?」
十和子がすぐ部屋にやってきた。
「上着着ないと駄目だろ」
と注意しても一向に戻ろうとしないので、良時は椅子の背にかけていた自分のカーディガンを妹に羽織らせる。
「密は節分した?」
「するわけねえ」
我が物顔で良時の椅子に座り、机の上の地球儀をゆっくり回しながら答える。
「来年はうちで一緒にしようよ」
「お前がくたばってなけりゃあな」
雪絵の耳に入ったら水をぶっかけられかねない台詞だが、どうしてか、密の憎まれ口に良時は腹が立たない。当の妹が「どうかなあ」とけろっとしているせいか、怒っても無駄だと分かっているせいか。

「『鬼は外、福は内』って言うよね」
十和子が言った。
「みんなが鬼を外に追い出しちゃったら、鬼はどこへ行くのかな?」
「豆をまいてないところじゃないのか」
鬼なんていない、という返答を避けて良時は答えた。
「え、じゃあ密の家にいっぱい来ちゃうよ」
「ついでに掃除してくれねえかな」
当たり前だが、密はまったく取り合わない。
「それで、みんなが福は内しちゃったら、福をもらえない人もたくさんいるね」
「ああそうだよ」

密の、皮のほかは全部骨でできていそうな指が、急にぎゅんっと地球儀を回転させた。
「おい、乱暴にするなよ」
良時の抗議を無視して、言った。
「鬼は誰かに押しつけたい、福は自分のところで離したくない、この世はそういうバランスでできてんだ。それでぐるぐる回ってる」
「それじゃあ全然回らないと思うよ?」
「自分の鬼が誰かの福だったり、その逆もあるからな。でも行動原理はそれしかない」
「ふうん……」

人形のこしらえみたいに頼りない膝の上に顎を載せ、十和子はすこし考え込んだ。そのまま目を閉じるので、眠いかだるくなったか、と思いきや、まぶたを伏せたままはっきりした声を出した。
「ゆうべはね、熱があってあんまり眠れなかったの」
「うん」
どちらに話しかけているのか分からないが、密が返事をしないので良時が頷く。
「頭がぐらぐらして、背中も痛くていやだなって思ってたんだけど、朝になったらちょっと楽で、外を見たら空がすごくきれいだった。それが嬉しくて、きっと、熱が出てなかったらこんなにきれいに見えないんだろうなって思った。熱が下がって見る空がきれい、熱のある時にたくさん飲むお水とか麦茶がおいしい」
畳の上で寄り添うような左右の足の指。靴下を穿かせないと、また風邪を引いてしまう。

「十和子は……元気だったらいいな、来年も普通に生きてられたらいいなって、思う。でも、元気じゃないから知ったこともたくさんあって、全部が全部『鬼は外』じゃないような気がする。鬼と福って、本当は分けられないんじゃないかな」

良時にとって、密の賢さは得体が知れない。たくさん本を読む、とか、その手の蓄積だけによらない気がしていた。この先自分がどれほどまじめに勉強したとしても、このさめた眼差しが辿る果てを、見られないと思う。でも、学校にも通っていない妹は、密の言葉を水のように飲み込んでしまえる。良時は言葉が見つからないのに。

十和子が咳き込み始めたので布団に入らせて、部屋に戻ると密は頬づえをついて窓の外を眺めている。
「いい天気だな」
「どこが」
朝方は晴れ渡っていたが、午後から雲が張り出してきて、今はいちめん、洞窟の天井みたいにぼこぼこの曇天だった。
「これがいいんだ、灰色で」
「密ははっきりしてるから黒とか白とか、ぱっきり分かれてるほうが好きなのかと思ってた」
「全然」
ほら、そんなふうに即答するくせに。
「灰色がいい。混ざったら黒と白に戻せないのがいい」
アフリカの白茶けた大地を良時のほうに向けたまま止まっていた地球儀が、また指先に押され回り出す。回転速度を上げると、国と国、陸と陸、陸と海の境もマーブルに分からなくなった。

「何もかも混ざったらいいのにって思わねえか」
「何もかも?」
「そう。国境とか血とか、混ざらないようにしようとするからめんどくせえんだよ」
それが「鬼は外」の意味なのか。
「種も卵もぜんぶごっちゃの灰色だったらいっそ楽だろ」
「でも、元に戻せないからやらないんだろ?」
「そう」
そこで密は良時を振り返り「お前らもごっちゃになればいいんだ」と言った。
「俺と十和子?」

また、真意を測りかねる発言だった。物理的に「混ぜる」なんて無理に決まってるし、兄妹で結婚しろと言っているわけでもなさそうで、でも、問うて答えが返ってこないことだけははっきり分かっている。だから良時は、やっぱり黙るほかない。ここに十和子がいたら何て言うんだろう、と考えながら。

帰り際、玄関まで見送った時、密が「また落ちてた」と手のひらを向ける。四角いチョコレートだった。透明なセロファンで両端がひねってある。
「食べれば」
「いらねえって」
と言いながら包装を向き、裸になったチョコレートを良時の唇に押しつけた。
「溶けるから早くしろ」
戸惑いを急かされ、半端に口を開くと乱暴にそれは入ってきた。噛むでも舐めるでもなく突然の甘みを持て余す良時の足下にくしゃっと丸めたセロファンを捨て、密は帰っていった。「傘」と良時は追いかけて呼び止める。

「雪降りそうだ、持っていけよ」
背中は振り向かない。かける言葉を間違えたのかもしれない。
「風邪引くぞ、弱いくせに」
間違えていたとしても、良時にはそんなことしか言えない。体温で溶けたチョコが舌を甘ったるく浸した。一瞬、触れた密の指とは、混ざらなかった。

海鳴りかと思ったら、雷だ。遠くから、胃の底をざわつかせる響きが雲の中を這い進んでくる。雷の多い土地だった。冬は、シベリアからの寒気と暖かな対馬海流の温度差が沖合に雷雲を生む。風が運んでくるのは鳥ばかりではない。いや、鳥が翼に氷の粒を含んでやってくるのか。

稲光が、蔓のように雲に絡む。空と海の摩擦が光る。混ざり合ったりはしない、と吠える。冬の雷は高度が低いから、夏よりずっと強力だ。寒すぎて、チョコレートはいつまでもつめたくぱきぱき歯にしみた。でも春が来たら、密は遠くへ行ってしまう。これまでだって本当に「近く」にいた試しはなかったけれど。

言っちまえ、と言った密。

東京からドイツへ発つ飛行機は、良時の頭上を飛ぶだろうか?分からないけれど、雲の上、高高度に広がるまじりっけのない青空を密は嫌いだと言うだろう。ずっと濁った雲の中を飛んでいるほうが好きだと言うだろう。

良時は、たぶん何とも混ざり合っていなくて、でもひとりきりでもいられなくて、今は、食べきれないチョコレートの始末を考え始めている。

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