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ディスタンス(2017Winter)

※冬コミ無料配布小冊子。「キス」のふたりです。

大学の食堂で昼を食べていると、近くの席でちいさな悲鳴が上がった。ざわめきの波紋が拡がる。

「雑賀くん、ここいい?」
ものの十秒足らず気を取られた間に、語学のクラスが一緒、程度の顔見知りがトレイを両手に目の前に立っていた。「どーぞ」と明渡は答える。
「ありがと。何かあった?ざわざわしてる」
「蛇。さっきそこにいた」
ガラス張りの壁面の外には芝生と植え込みのゾーンがあり、そこをするするっと通り過ぎていって、女子を驚かせたのだ。
「え、うそ」
案の定、九〇度の角度にかけた彼女も軽く椅子を引いた。
「うそじゃねーよ」
とっさに口から出た言葉だと分かっているが、蛇ごときで何を動揺してんだろうと思ってつい突っ込んでしまった。
「ただのアオダイショウだから毒もないし、せいぜい五十センチぐらいのちっさいやつだったよ」
「えーっ、五十センチってちっさくないよ!てか雑賀くん、平気なんだ?」
「俺、田舎育ちだから。近所の山でしょっちゅう見てた」
「意外」
「地元の神社、蛇神さまだったし」
「あー、うちの近くにもある~、でも蛇の神社ってちょっと怖くない?」
「いや別に、蛇いっぱい飼ってるわけでもねーし」
むしろ、言い伝えによるとご本尊は長い不在らしいし。
「だって蛇って執念ぶかいっていうじゃん。お参りにいって失礼なことしたら祟られそう……」
「その発言も聞こえてんじゃね」
「えーやだー!」
まんざら冗談でもなさそうに怯えてみせる。
「つか、蛇が執念ぶかいなんて、誰が決めた?」
素朴な疑問を口にすると、「さあ」と小首を傾げる。
「イメージでしょ」
「だって俺、蛇にしつこくされたことなんてねーもん。山で見かけても、さっきみたいにしゅるしゅるって慌てて逃げてくだけ」
「アマゾンとかにいるおっきい蛇のことかも。人間呑み込むぐらいの」
「それもう執念とかの話と違うし」
「知らないよー、蛇のことなんか。それより雑賀くん、合コン興味ある?友達が今度幹事するんだけど、声かけて欲しいって頼まれてて」
「飲み会は嫌いじゃないけど、彼女はいらない。俺、相手いるし」
「え、そうなの?学内の子?」
「地元。長野」
「へー遠恋なんだー。でも長野なら新幹線だし、月イチぐらいは会える感じ?」
「いや全然帰ってない、いろいろ忙しいし」
「それじゃ彼女寂しいじゃん。まめに連絡してる?」
「全然してない」
「え……全然って、ほんとに『一回もしてない』って意味じゃないよね……?」
「文字どおりだけど?」
あっさり認めると、さすがに絶句された。
「それ、つき合ってるって言わないと思う」
「だよな」
俺もそう思う、てか、「つき合ってる」とは言ってねーし。「相手」ってだけで。

学食を出て、まだ午後の講義まで間があったから構内をぶらついていると、民俗学の教授を見かけて声をかけた。
「蛇ねえ。確かに、巳年は性格がしつこいなんて言われるね。『蛇のような』って形容されると褒め言葉にはならないし。それは、蛇の持つ生命力の強さに起因してるんだろうね。首を落として皮を剥いでもまだ動いてるし、脱皮を繰り返す。恐れられ、同時に信仰の対象にもなる。紀州の、安珍と清姫の伝説を知ってる?」
「知らないです」
「ざっくり言うと、ひと目惚れした男に逃げられた女が執念で蛇に化けて襲いかかるって話なんだけど」
「へえ、うちの地元と逆っすね」
蛇の神社の由来をかいつまんで説明すると「面白いな」と感心された。
「実は、清姫が蛇の精の血を引いていて、本来の姿を見て安珍が逃げ出したっていう物語もあるんだよ。清姫は絶望のうちに入水自殺した––––こっちは君の故郷の伝説に近いね。長野と紀州か……何らかの物語の伝播があったのかもしれない。今度、もし帰省することがあったら、お年寄りに話を聞くとか、郷土史のパンフレットをもらってくるとか、頼めないかな?」
「あ、はい」

でも帰んないんだよな、と思いつつ時間が来たので教室に入り、マナーモードに切り換えるため携帯を取り出す。着信もメールも、ない。あるわけないよな、という気持ちは実家を出てからずっと変わらないのだが、完全な諦めとして処理するに至らないまま、こうしてかすかな落胆を繰り返している。

苑は、蛇の名を持ちながら、明渡にみじんの執着も見せない。実家に戻らないのは、こっちで楽しくやっているから、というのももちろん大きかったが、まったく音信を寄こさない苑に対して意地になっている部分もあった。どうしてるかなとか、会いたいとか— —ありえない、知ってる。迎えに行く、という明渡の言葉さえ、「言ってたな」程度だろう。でも、嫌いかと訊けば「ううん」と本心から答える。苑はそういう性格だった。

明渡は会いたい。いつもうっすらとした翳りの中にいる苑の顔が見たい。抱きしめてキスをして抱きたい。傍にいて共有できない衝動を、ひとりでふつふつ抱えている。苑の、「見えている」という情報以上の感情を伺わせない瞳。変温動物みたいにさらりとつめたい肌。苑ならほんとに蛇でもいいのに、と思う。嫌いになんてならない。逃げ出したりしない。手足なく、波のように身体をうねらせて逃げていく姿を追うだろう。

「きょう、何の日か知ってる?」
飲み会の席で、不意にそう問われた。先月、学食で一緒だった同級生だ。
「え、何で俺の誕生日知ってんの?」
「え?え?ほんとに?」
「うそ」
「もう」
「もうって言われても……えー十二月二十一日だから……イブイブイブイブ?」
「まじめに!」
「いや、全然分かんない」
遠距離恋愛の日なんだって、と、大事な秘密でも授けるように彼女はこそっとささやいた。
「何?」
「えっとね、1と1が両端に離れてて、で真ん中は2と2……会えたからふたりになってるんだって」
ナントカの日、って、ほとんどがこじつけのゴロ合わせだが、その中でもかなりの高難度じゃないだろうか。
「無理やり感がすごいな」
「こういうのは何かのきっかけになればいいの!ほら、長野の彼女に連絡してあげなよ!」
「向こう携帯持ってねーもん」
「家電はあるんでしょ?郵便でクリスマスカード送るとか」
「んー」
それらの提案を苑がちょっとでも喜ぶとは思えず、明渡は曖昧にごまかした。もっと言えば、この足で新幹線に飛び乗って苑の家に行ったって。それでも「大丈夫」と言う。
「会いに行く時期は、ちゃんと決めてるから」
「そんなのんきなこと言ってる間に、ほかの人に取られちゃうんじゃないの」

そうしたら取り返すだけだ、と思っている。ほかの誰より自分のほうが苑を好きに決まっているし、そう言って苑の手を取れば、拒まれないのを知っている。苑は自分のことも明渡のことも好きじゃない、だからこそ明渡をゆるす。明渡が苑を好きだからするどんな行いも、最終的には受け容れる。掴んでも抱いても時々抜け殻みたいにひゅうひゅう寂しくなる、苑が、好きだった。どこが、とか、どうして、とか考えるのは無駄としか思えず、どんな理屈を発明しても苑は納得しないだろうから、どうでもいい。感情に理性で邪魔をされたくなかった。

「……いて」

額の、生え際を指で押さえる。
「え、どしたの?」
「たまに頭痛するんだ」
「あー、私も低気圧の日とか、あるよ。大丈夫?」
「平気」
指でぐりぐり頭を圧しても硬い頭蓋骨に阻まれて、というか守られて、本当に痛む部分には触れないし、どうなっているのか自分の目で確かめることもできない。苑みたいだ、と思う。
「そういえば、傷あるよね、右の眉毛の上」
「あー、うん」
ほかの部分とかすかに感触の違う痕に指先を移動させ、明渡は笑う。
「蛇の神さまにやられたんだ」

「じゃあな、タクシー来たし、俺行くわ」
成人式が終わって、高校時代の友達の家で夕方から明け方までだらだら飲んだりしゃべったりしていたので、半分以上は寝落ちしていた。
「酒抜けたら車で送ってやるのに」
「用事あんだよ」
「こんな時間から?」
「そう」
「また飲もうな。今度いつ帰ってくる?」
「んー……微妙。決まったら連絡するわ」
「おう」
タクシーで実家に戻り、短い滞在の荷物が入ったかばんだけ取ってすぐ車に戻った。成人式まで一度も帰ってこないなんて、とぶつぶつ文句を言っていた母親は、この泥棒みたいな出立にまた怒るだろう。運転手に苑の家の住所を告げ「ひとり拾うんで、それから駅に行ってください」と頼んだ。

神さまのいない、留守番の山は雪をまとって、朝陽が昇ると山肌の陰影が白銀とアイスブルーに輝く。ああ、きれいだな。俺、ここが好きだな。出て行くけど。苑を連れて。
苑の家の、何度となく自転車で通った窓の前に立つ。すこし緊張していた。自分の辿ってきた靴底のへこみを見る。帰り道の足跡は、二対のはずなのだ。
サッシに手を掛けて力を込めたが、昔のようには動かない。だからノックをした。カーテンが開き、ぼやけた人影が、ガラスの曇りを手で拭うと苑が現れた。鮮やかな脱皮を目にしたようで明渡はどきどきする。

苑、来たよ。ガラス越しに手のひらを重ねる。つめたい。触れられない。それでもいい。傍にいてくれたらいい。迎えに行ったら何を言おうかと、いろいろ考えていた時もあったのだが「さむい」とつまらない言葉が出た。

寒くて、嬉しくて、笑っていた。

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