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アメノメ

※「ナイトガーデン完全版」発売記念こばなし。和章と柊。

きょうは入梅なんですよね、と打ち合わせの雑談に聞いた。確かに灰色の雲が幾重にも波のようなグラデーションで覆いかぶさってくる日だった。空がひくい。

「ああ、そうですね、雨が降りそうだ」
「雨、お好きなんですか?」
単なる相づちのつもりだったのに、ふしぎそうにそう訊かれ、こっちがふしぎだった。
「いえ、特に。こちらの予定によっては不都合を生じることもある、程度の認識ですが」
「あ、すみません、何だか今、ちょっと楽しそうに見えたので。気のせいですね」
楽しそう、の具体的な要素を聞きたかったのだが、そのまま話は本題に戻り、和章は確かめることができなかった。

嘘をついた。雨は好きじゃない。というか、雨にまつわる記憶が苦しい。それを取り去ってしまえば今の自分もないと思えば、いっそう。マンションに着く直前、肩にぽつっとしずくを感じた。日本は四季プラス梅雨で正確には五季だ、という主張をどこかで聞いた。長い雨の季節がまた始まる。それでも、憂うつではなかった。傍に柊がいてくれるおかげ、確かにそれはそうなのだけれど––––。考えに出口を見出す前に帰ってきてしまった。時間切れだ。鍵を挿し込んで扉を開けると、玄関で柊が出迎えてくれる。

「おかえり。雨、大丈夫だった?」
「ただいま。ぎりぎり間に合った。今降ってきてた」
「よかった」
安堵して笑う瞳がやわらかいオレンジの照明に映える。思わず目を覗き込むと「なに?」とびっくりされた。
「何かついてる?」
「いや、近くで見たくなっただけで。でも当たり前だけど、近づきすぎると俺の影が映り込んで邪魔になる。もどかしいな」
これは嘘じゃない、でも何かついていたことにしてやったほうがいいのかなと思うほどには、柊は照れていた。

柊の目はくるくる明度と彩度を変える。夜の深い場所にふたりで沈んでいく時は当然暗くなるはずなのに、そこに浮かぶ鮮やかな緑色が和章にははっきり分かる。風に揺れる梢のように揺れるところも。
「あっ……」
なぜかそんな時、煩わしい和章自身の影は落ちていない。俺はどこに行ったんだろう、不安はない。だって確かにつながっているから。柊と。永遠に続くような喜びと、もう後がないような寂しさを行き来する交歓で。
「和章さん」
瞳が、潤んで濡れてくる。緑の瞳を透明な膜でくるむ。雨粒が葉に落ち、全体を優しく潤すように。

そうか、と和章は不意に気づく。雨のイメージ自体がいつのまにか柊に重なっていたから「ちょっと楽しそうに見えた」のだと。忘れられないものはそのままに、認識を変えてくれていた。雨は緑を鮮やかにするもの。柊の瞳を美しく濡らすもの。春も夏も秋も冬も、和章が独り占めにする雨の景色がここにある。
「……ありがとう」
「え、なに?」
「何でもない」
「気になるー……」
「本当に、何でもないんだよ」
和章は嘘をついた。言ったらまた恥ずかしがらせてしまいそうだし、この先ぎゅっと目を閉じられて、見られなくなったらいやだから。和章だけの、雨の瞳を。

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