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2019Summer

※夏コミで配布した折り本のこばなしです。
潮の父、その兄、とのちの秘書、第2話目。

1話目はこちらに。

名前のないドキュメント(Untitled Document)2

——ここなら大丈夫、お母さんのお母さんのお友達の家なの。
そう言う母に手を引かれ、連れていかれたのは見たこともない立派なお屋敷だった。
——この間、おばあちゃんのお葬式があったでしょう、参列してくれて……困ったことがあったらうちにいらっしゃいと、住所を教えてくださったの。
暗い夜道を、塀に沿って延々歩いていたと思ったらその塀はひとつの家を取り囲んでいた。夜分遅くに申し訳ありません、と裏木戸から勝手口に回り、戸を叩いて訴えると中年の女が出てきた。後から、三人いる家政婦のひとりだと知った。大奥さまにお取り次ぎいたしますので、とそのまましばらく待たされ、やがて着物姿の、いかにも女主人という風格の年取った女が現れて「まあ」と目を丸くした。見覚えがあった。質素、というかみすぼらしい葬儀には不釣り合いなぴしっとした喪服と、ぴんと伸びた背筋、後れ毛なく結われた髪は白髪でもつややかで、頭を下げる仕草、香典袋を差し出す手つき、焼香の所作、ひとつひとつが、これまで一万人もの弔いを経験してきたように隙なく確かだったから。

とはいえ、こんな夜更けに着の身着のまま押しかけて大丈夫なんだろうか、という不安は当然律にもあったのだが、母はそんなことには思い至らないのか、「若宮の奥さま、私……」とみるみる瞳を潤ませた。律はしばらく客間らしい和室にひとり置かれたが、「寒かったでしょう」とまた違う女が現れ——それは「奥さま」の息子の妻だった——「お風呂に入りなさい」と勧めてくれた。寒さと、一時間以上歩いた疲れと、全身の痛みが温かい湯の中に溶け出すと、緊張していた心もほぐれ、薄い飴のように心臓を覆っていた強張りが剥がれて涙に変わった。その水の熱さがみじめさや悔しさを呼び起こすとたちまち止まらなくなる。心なんて、感情なんて、なければいいのに。

そうして泣いている時、初めて出会った。若宮波と誉の兄弟に。一見して、ああ、ぜんぶ持ってる人たちだ、と思った。ふたりともが整った目鼻立ちで、波が着ているセーターも誉が羽織っているカーディガンも、毛玉やほつれの気配さえなくなめらかな繊維の、粛々と編まれた上等な静けさで光って見えた。妬みやひがみといった感情は起こらず、ただ遊園地の電飾を遠くから眺めているような非日常のまぶしさに目を細めるだけだった。

「何だ、また暴れてるのか、お前の親父は」
何度目の訪問(というには毎度礼儀を欠きすぎていたが)かの夕方、突然波がやってきてそう言い放った。その日は父親の仕事が休みで、朝から機嫌が悪かった。当たり前だが、若宮家の人間全員、律の母の事情はもう承知しているらしい。どのように伝わり、そしてどう思われているんだろうと想像するとむしょうに恥ずかしく、律は畳の上で正座したままきゅっと身を縮めた。父が酒を飲んで暴れるのは日常茶飯事で、それがたまに危険水域を大きく超えると母は若宮の屋敷に駆け込むようになっていた。大奥さまも奥さまも嫌な顔ひとつせず、そのたび親身に母の涙を受け止めてくれていた。ここは安全で、快適で、ゆっくりつかれる風呂もぐっすり眠れる布団も、温かい食事も与えられる。家とは天地の差だった。でも違えば違うほど、なぜか律は居心地が悪く、和室の片隅で、家よりも息を潜めてじっと座っているしかできなかった。そうしていると大抵誉か波が「テレビ見るぞ」とか「漫画読む?」と顔を出す。大奥さまから何か言い含められているのかもしれないが、ふたりとも律の相手を仰せつかったようなことは何も言わなかった。

「お前、何回うちに来たら座布団の使い方を覚えるんだ?」
波が顎をしゃくって律の側にある座布団を示した。招かれざる客の身で堂々としていられないから、という律の負い目は、たぶん分かって訊いているのだろう。座布団を取り上げて器用に指先でくるくる回したかと思うと律に投げよこす。受け取ったものの、やはり足の下に敷く気にはなれず、両手であいまいに折りたたんだり広げたりしながら「誉さんはいないんですか」と尋ねた。
「あいつはきょう絵画教室だよ。つまらない絵を描いてる」
悪口でしかないと思うのだが、放たれる言葉にいっさいの悪意を感じない。波はいつもそうだった。だから律は反論も同調もできず、困る。
「誉に用でもあったか」
「別に……」
会話に窮して訊いたに過ぎない。波のことはすこし、いやだいぶ苦手だった。何でも放埒に口に出すし、何にも臆さない振る舞いはまぶしさを通り越して目の毒と思えた。それでいて腹の底で何を考えているのか想像もつかない。波、という名前は似合わないとこっそり思う。どんな雨風にも波立たない、鏡のように美しい凪。なのにどんなに目を凝らしても水面の下に息づくものが見えない。飛び込んでみないことには。律には到底そんな度胸はなかった。誉のほうが年も近いせいもあって気楽だった。それでいてこの兄弟同士は、とても仲がいい。べたべたしているわけではないのに、互いだけが通じ合う呼吸で、一緒にいると独特の相棒めいた空気をつくる。

「よし、じゃあ駅まで誉を迎えに行くぞ」
用はないのに、一方的に決めてさっさと部屋を出て行く。律がその後をついてくるのを疑いもしない足取りだった。
一階に降り、表玄関に続く廊下を進んでいくと、波が急に立ち止まり、律を振り返って軽く人差し指を立てる。襖の向こうから、女の話し声が聞こえてきた。
——律がかわいそうで、私がいたらないばっかりに……。
——困ったわねえ、うちの人から一度言い聞かせてもらいましょうか?
——いいえ、そんな、先生にご迷惑がかかってしまいます。それに、あの人、悪い人じゃないんです、いつも泣いて反省して……どうしてこの世にお酒なんかあるんでしょう。
人差し指に遮られた波の口元が、笑った。どんな感情に根ざす笑顔なのか律には分からなかった。憐れみか嘲りか。角度によって違う色に見える鳥の羽根や虫の翅みたいに本当の色彩を悟らせない。
そのまま静かに玄関を出て、門に向かう途中で波はまた足を止め、今度は律の着ている長袖のシャツをズボンから引っ張り出して腹をあらわにさせた。人に手を伸ばされるととっさに構えたりよけたりしてしまうくせのついた律に身動きを取らせないほど素早く無造作だった。うすれてきたと思えばまた肌にしるされる、いくつもの殴打痕を見られたのはこれが初めてじゃないが、それでも慌てて振り払う。

「新種の柄の動物みたいだな」
明朗すぎて酷薄さを感じさせない声で波が言う。シャツのすそをズボンにしまいながら、律は何だか怖くて顔を上げられない。殴りも蹴りもしないのに、父親より恐ろしい気がした。
「顔を殴らない程度の浅知恵はあるみたいだけど、健康診断とか体育の授業は?学校で何も言われないか」
「別に……」
同級生も教師も、露骨に目をそらすか、不自然なまでに「何も見えていませんよ」という態度で接してくるか、だった。
「ま、そうだろうな。アル中ひとり御せないのはうちのじいさまも父さんも同じだろうし。国会議員の威光なんてたかが知れてる。犬に議員バッジ見せても理解できないからな」
それが腹立たしい、というわけでもなさそうな、淡々とした口ぶり。
「人間の、いちばん古い約束は何だか知ってるか?」
質問の意味がよく分からず、うつむいたままかぶりを振った。
「互いに殺し合わないことだよ。要は共食いしてちゃ種が滅ぶ。まあ、破るやつが後を絶たないんだけどな」
春の日が、暮れかけていた。肌寒い空気はまだシャツの中で新鮮だった。敷石の上に伸びる波の影を見て、ある、と思う。ちゃんと影がある、自分と同じ人間だ。なのにどうしてこの人は、こんなに、他の誰とも違うのか。
「相手が約束を破ろうとしたらどうする?」
「……分かりません」
「バカだな、決まってるだろ、先に破るんだよ。お前、何で殺さないんだ?」
耳を疑い、目線を上げて聞き間違いじゃないと思った。波の瞳が同じ問いかけで刺してくる。なぜ殺さないのかと。
「あの母親はあてにならない、だったら自分でやるしかないだろ。幸い、尊属殺も違憲の判決が出たし」
「そんぞくさつ……?」
「何だ知らないのか。刑法二〇〇条、自己又は配偶者の直系尊属を殺したる者は死刑又は無期懲役に処す——要するに親殺しは罪が重いってことだ」
親殺し、とはっきり言われて身ぶるいした。自分が、父親を殺す? 想像もつかないのに、波は「酩酊して眠りこけてるとこ狙えば簡単だろ」と言う。至って軽い口調で、でも本気なのだろう。波は、嘘をつかない。
「無理です」
か細い声で律は答えた。
「どうして」
「無理に決まってる……」
「そうか、大変だな」
会話が噛み合っていない。思わず目を眇めると、西陽を背負う波は、逆光で人の形に切り抜かれた暗がりに見えた。
「知恵も力も覚悟もなく生きてるんだな。俺にはそっちのほうがよっぽど無理だけど」
そのまま駅へ向かい、途中で誉と会うまで波はひと言もしゃべらなかった。そして誉に「おかえり」と言ってそのまま通り過ぎていく。出迎えではなかったのか。
「どこ行くんだ?」
「遊びに。晩めしはいらない。勝手口、鍵開けといてくれ」
「分かった」
波が行ってしまうと、誉はごく自然に「帰ろう」と律を誘った。ほっとして、振り返りもしない波の背中が不安でもあった。自分が弱いために、波をがっかりさせたかもしれない。でもまともに向き合えば眼差しひとつで周りの空気が密になり、ひしゃげてしまいそうでおっかない。
「……あの」
「ん?」
「あの人は、波さんは、何色だと思いますか」
「アカ(共産主義者)かってこと?」
「え?」
「律がそんなこと訊くわけないな。何でもない。律には何色に見える?」
興味深げに尋ねる誉に、さっき感じた羽根や翅の喩えを話すと、「へえ」と笑う。
「そういうのは、構造色って言うんだよ。シャボン玉とかレーザーディスクとか。光の干渉で、角度によってさまざまに発色して見えるけど、色素を持ってるわけじゃない。確かに波っぽいな。『そう見える』けど『そう』じゃない」
天頂からゆっくりと濃紺が下りてくる。波がどこに行ったのか見当もつかない。殺さないのか、と問われた話は、誉にはしなかった。

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