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ポケットの中のブルー

(※「藍より甘く」重版御礼・暁行と遙)

とうとう、というのか、遙がガラケーとお別れした。もっとも本人的には「意地やこだわりがあって使い続けてたわけじゃない」らしい。壊れたり不具合が出たらいつでも買い替えればいい、と構えていたら丈夫なままいてくれただけだと。

暁行がプレゼントした端末だったから、「スマホにしようと思うんだけど」とすごく改まって切り出した時の顔は、何度思い出してもおかしくてかわいい。この機会にちゃんと名義も料金も自分のにする、とかなり頑強に主張されたが、そこは暁行も譲らなかった。貢ぎたいわけでもいい顔がしたいわけでもなく、遙をひとりの社会人と見なしていないわけでももちろんなく、ちっぽけなつながりがないと不安だというわけでもなく……でも「何かやだ」と駄々をこね、結局苦笑いで許してもらった。暁行のわがままなのに、遙は「これからもよろしくお願いします」と、きちんと頭を下げてくれた。

で、遙が東京に来たタイミングで一緒にショップに行って購入し(機種代は遙が自分で払った)、あれこれ設定をしたのだが、次会ったらすっかり普通に使いこなしていてがっかりした。遠距離が悔しいのは案外こんなつまらない空白を味わう時だ。まごまごするところをもうちょっと見ていたかった、というのはもしかしてやや意地悪な感情なのだろうか?
意外なことに、遙は、架空の動物たちを採集する例のアプリを好んでいた。

「実家の周り、ポケストップが全然ないんだよね」
「だろーな」
と何の気なしに(だってどう考えてもなさそうなんだから)頷くとむっとされた。
「いっぱいあるからってバカにして……」
「いやしてねーよ!」

暁行自身は、世代ではあるものの、もともとアクションやシューティングのほうが好きなので、はなからダウンロードもしていないし、一時のお祭り騒ぎについても、へえ、という白けた傍観者でしかなかった。でも、遙が嬉しそうに「捕まえた」と見せてくれるのは嬉しい。

「もっといっぱい捕れるとこ行く?レアなの出るとことか」

そう誘ってもみたのだが、「そういうのは別にいい」らしい。コンプにもバトルにも興味はなく、街角にぴゅっと現れる生き物でない生き物、を手に入れるのが面白いみたいだった。

「会社のやつらも夏頃はドハマりしてた。わざわざスポットまで行ってあれゲットしたとかさ。すぐ飽きたっつってたけど。土日使ってまで集めてたくせに、はえーよな」
「そういう話聞くと『勝った』って思っちゃう」

遙は笑った。勝ちとか負けとか、きっぱりした、ある種無情な表現を遙がするのは珍しい。
「勝ったって、何が?」
「何かを、すぐ手に入れて、すぐ遊び尽くした気になって、すぐ手放すのがいいって思ってる人が都会にはいっぱいいるけど、ゆっくり長いこと楽しめる人間のほうが絶対に勝ちじゃない?『まだやってんの?』とか『まだ好きなの?』とか、平気で訊ける人はバカだなあって。飽きて捨てるために頑張ってるみたい」
「……なるほど」

その指摘は、すくなからず暁行の胸をもぐっと刺した。世の中の大多数に心当たりがある感覚だと思う。「まだ間に合う」とか「もう遅い」とか、顔も知らない誰かの物差しに振り回され、従わなければ、電車に乗り遅れるみたいな焦りを抱いてせかせかと。

でも遙は違う。ひとりでも、黙って線路を歩く。季節の移ろいを生きる植物と暮らしているせいだろうか。何の負荷も優劣もなく日々は巡り、四季も巡る。その理を、わざわざダウンロードするまでもなく、遙は頭でも身体でもないどこかで理解しているようなのだった。ふしぎな生き物だ、と思う。人間で、男で、そうなんだけど、それだけじゃなくて––––欲目かな?いいけど。

暁行は不意に、遙の目の前で、宙に人差し指を滑らせてみた。下から上へ、あれを捕まえる時にする動き。

「なに?」
「いや捕まえらんないかなって思っちゃって」
「……どうせ野生の田舎者だよ」
「そーゆー意味じゃねーよ」
「じゃあなに」
「教えない」
「ほらやっぱり」
「ちーがうって!」

本気では怒っていない、裸の身体を「もう一回」の意図で抱き寄せる。短い、ふたりだけの、高まり満ちる巡りがここにある。誰と比べることもない。

寝る前、遙はうつ伏せになってアプリを立ち上げ、でも操作はせずにまたすぐ終了させていた。

「やっていいよ」
「ううん。この、始まる時の画面がいちばん好きだから」
「どういうこと?」
「GPS読み込んでる最中の、星空があって、あとは何にもない、暗い平野にぽつんといて、地平線が見えてる、青っぽい眺めが好き。どっかにあるようなないような……寂しいけど、きれいだから。地平線は勝色、空は鉄紺、川は瑠璃紺」
「……ふーん」

夢見るような横顔にも青が差して見え、暁行はつい遙の頭を撫でると「どこにも行くなよ」と言った。

「何言ってんの、急に」
「分からんけど」

言いたくなったのだ。
遙も返礼みたいに暁行の頭を撫で「じゃあ、ボールに入れて持ち歩いて」と笑う。

「うん」

本当にそんなこと、できたらいい。でも、できてもきっとできないだろう。

「あ、そうだ、指紋ちょうだい」
「ん?」
「いつでもロック解除できるように、入江の指紋も登録しとく」
「え~そんなことまで知ってんの~?」
「どういう意味?」
「いやー別に。てか疑わないし、しなくていいよ」
「疑うとは思ってないけど、緊急の時とか」
「分かった。じゃあ、俺のにもハルの指紋登録しとこう」
「俺は疑うよ」
「おい」
「疑う」

急にぷいっと背を向ける。

「入江が怒っても、傷ついても、疑うと思う。疑って携帯をのぞき見ないって約束できないから、俺の指紋は登録しないで」
「バカ」
「バカです」

襟足から始まる、うなじのライン。女みたいに細くもやわらかくもない。よく知っている。そこに汗が流れる時のなまめかしさ、舌を這わせた時の味、後ろから抱いて歯を立てた時の、うぶげの逆立ちも知っている。
こんなふうに、そっと唇をつけた時のぬくみも。

「や」
「ほら、指貸せってバカ」
「やだ」
「疑っていいよ。お前が見たい時に見りゃいいんだ」

それでいつか、長い長い取り越し苦労を「ばか」と笑ってやるのを楽しみにしてる。
お互いの携帯に、お互いの指紋を覚えさせる。儀式みたいで悪くなかった。目を閉じると、遙の指が、すっと液晶をなぞる仕草が浮かんでくる。その爪先に藍がにじんでいるのを見ると、いつでも暁行はたまらない気持ちになった。

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