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シグナレス

8月のインテックス大阪のイベントで配布したペーパーのこばなしです。「ふさいで」の設楽と栄。

「設楽さん、よかったらこれ飲んでください」
「ん? ありがとう、どうしたの、間違えて多く買っちゃったやつ?」
「まさかー、それ結構高いんですよ? でも設楽さんのために買ってきたんです!」
「あれ、俺きょう誕生日だっけ」
「それは知らないですけど」
「じゃあ何で?」
「設Pがタピオカ飲んでるって面白いじゃないですか。したぴがタピオカ……えへへ〜かわいい〜」
「あはは〜」
「一緒に写真撮りましょ〜、はーい」
「は〜い」

「……っていう会話をバイトちゃんとしたんだけど、もう若者の笑いのツボが全然分からない」
「へえ」
「栄は分かる?」
「さあ」
いつも以上に生返事なのは、秋以降の編成に対応してCM位置と尺割りを変えようと思って構成表とにらめっこしているからだった。たかがCM、されどCM。二分を一分半に、あるいは一分半を二分に、ちょっといじるだけで視聴率に結構影響することもある。早めに引っ張らなくてはならないタイミングと、まあまあ長くCMを流していても平気なタイミング。視聴者の生理はなかなか読みきれるものじゃない。そして、微調整であれ、あっちをいじればこっちもいじらねばならず、玉突き的にそっちも……というパズルが発生するのでなかなか難しい。
スポーツ前はセット転換が大変だから二分半はほしいし、特集前に移したら今度は天気前のCMが微妙……で、ここは提供必須だろ。ややこしいなちくしょう。
ソファに陣取り、ローテーブルに置いたノートパソコンに向かう栄の意識はやがて液晶にすっかり吸い込まれ、カウンターに座る設楽が何かをしゃべり続けてのはかろうじて認識しつつ、内容はまったくインプットされなくなった。ソファでパソコンを凝視していると、スツールは視界の片隅にも入らない。
……こうすればいいのか? よし、大体クリアできそう。
自分の中で満点ではないが、八〇点くらいの答えが導き出され、設楽の意見も聞くべく「なあ、」と顔を上げると、いつの間にかすぐ傍に立っている。カウンターから移動していたことにまったく気づかなかったのでちょっと驚いた。
「いつからいたんだよ」
「栄」
「何だよ」
普通に返事をしただけなのに、頭をぱしっとはたかれた。
「は? 何すんだ」
痛くはなかったが突然だったのと、じゃれるとかふざけるとかじゃない、おざなりで雑な手つきに腹が立ってにらむ。しかし眉間を狭めて栄を見下ろす設楽の視線はもっと不機嫌そうだった。
「風呂入ってくる」
ひくい声で言うとさっさと風呂場に消えてしまう。
「……んだよ」
栄はもう一度つぶやく。何キレてんだよ。いつも、話を聞き流して無視した程度では怒らないのに、表情や口調が珍しくはっきりと不快そうだった。
こっちは仕事してんだからスルーされたくない話題があんならタイミング読んで切り出せよ、と栄も軽く腹が立ったのできょうはもう帰ることにした。パソコンの電源を切ろうとまた向き直った時、あることに気づく。

そういや、左手で頬づえついてたな。頰、というよりは左耳を手のひらでべったり覆うかたちで、考え込んでいた――「聞いてない」じゃなくて「聞こえてない」んじゃないかって、ちょっと焦ったんだな。
バカじゃねえの。理由に思い当たればもっとムカつくような、それでいて笑えるような何とも痛がゆい気持ちになって立ち上がり、寝室のベッドに転がった。今でも貼ったままの古い写真は、見慣れて何とも思わなくなった。ただの背景の一部だ。でも設楽にはそうじゃないのかもしれない。
バカだな。さっきより断定的に考え、しばらくうとうとしていたが半開きのままだったドアが開く気配で目を開ける。
「……ご機嫌取りにも来てくれないんだから」
ささやかな怒りはもう洗い流したのか、いつもの設楽だ。そして栄が原因に思い当たったことは察しているらしい。
「取ってるだろ、ここで待ってやってんだから」
あくび混じりに言い返すと苦笑がよこされる。
「どう見てもただ眠たかっただけの雰囲気だけど」
スプリングにそっとかかる、ふたつめの重量。さっきとは別人の仕草で前髪をかき上げる手。現金なやつ――いや、俺もか。
「言っとくけど、俺がなったの、再発しねえ難聴だから」
「知ってるけど、お前の場合ストレスがどこにどう出るか分からないから――なに笑ってるの」
「ちまちま余計な心配するくせに、俺をストレスフルな環境に叩き込むのが大抵あんただっつう矛盾に」
「ああ、返す言葉もないね」
設楽は黙って耳に指で触れ、唇で触れる。あ、さっきの構成案保存してなかった。終わったら忘れてたりして、と思ったが、中断はさせないことにする。一緒に考えさせりゃいいんだ。

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