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旧世界より

※オリジナル、名もなきリーマンズです。

そういえば、学校の長期休みというものがあまり好きじゃなかった。理由は実に単純で、同じ学校、同じクラスという接点しかない相手の顔を見られないから。もっとも、家が近ければ道端や図書館やプールや夏祭りでばったり遭遇できるというボーナスチャンスに期待できたし、新学期に日焼けや髪型の変化を見て取ってこっそり楽しんだりもした。

あれから十年経っても、進歩がない。勤め先がリモートワーク化されて「ただの同僚」とはまったく会えなくなった。「同じ部署の同僚」ならビデオ会議やLINEでのやり取りがあるし「仲のいい同僚」なら個人的に連絡してオン飲みもできる。そのどちらでもない相手とはつながる余地が––––いや、メールアドレスはわかるし「最近どうしてる?」とコミュニケーションをはかるのは簡単だ。でも社員食堂や自販機の前で偶然一緒になった時、話すことといえば社内の誰が結婚したとか離婚したとか、あるいは業績の見通し、次のボーナスの皮算用、要は同じ会社という共通言語を踏まえた狭い狭い世間話で、この状況下でわざわざしゃべることでもないし、ひっきりなく情報が更新されていく(それもあまりめでたくない方向での)世界の情勢についてなどもっと気が進まなかった。

だから、向こうのほうから「空いてる時オン飲みしよう」とメールがきた時は驚いた。とりあえず末尾にあったLINEのIDを登録して「何で俺?」と率直に尋ねると「あんまプライベートでしゃべったことないから」と返ってきた。
『この機会に交流を広げようと思って』
『わかった、仲良い友達との飲みが一巡して退屈したんだろ』
『それもある』
正直さにちょっと笑った。気まぐれでも暇つぶしでも嬉しかったから「いいよ」と応じて週末の夜、パソコンの脇に酒とつまみを用意して待った。

『お疲れ、元気?』
やがて画面の中に現れた同僚は髪を下ろしてTシャツ姿だった。不躾に家に上がり込んでしまったような多少のきまり悪さを覚えつつ、ラッキーだと思った。もちろん自分のゆるい出で立ちもある程度見られているわけで、お互いさまではある。
モニター越しに缶ビールを掲げて乾杯した。同僚は氷入りのグラスを持っていたので「中身なに?」と訊くと「レモンサワー」と返ってきた。
『とうとう、そのものじゃなくて「レモンサワーの素」買っちゃったからね、しかも濃い目って書いてあるやつ。飲みに行けてないけどトータルで酒量増えてるかも』
「量に関係なく、毎日飲んでたらそれはアル中らしいよ」
『あ、やべ』
あした休肝日にする、と見慣れた笑顔の、平面の粗い画素が却ってぐっときた。会うこと、触れることが禁忌。会いたい、触れたいと思うこと自体を禁忌のように感じ生きてきた身にはどうということもない、当初はそうたかを括っていた。でも人間は、万にひとつもない可能性でも明確に閉ざされたら律儀に落胆する生き物らしい。
『出費は抑えられるかなって思ったけど、通販捗っちゃって、スニーカー二足も買ったし』
ちょっと待って、としばらく画面から姿を消す。背景は生成りの壁紙だけだった。そこに、またひょこっと同僚が戻ってくる。人形劇か何か見ているみたいだった。本当に、生きて、存在してくれてるんだろうか。今は確かめられない。今でも、すべてがフィクションのような気がしている。

『ほら、これ、よくね?』
箱から得意げに取り出したスニーカーはかかとのところがぶ厚く、ネオンカラーのラインが鮮やかだった。
「ジャンプ力上がりそう」
『びよーんて?楽しみだな、早く履きてー』
「散歩とかすればいいじゃん。まさか一歩も外出してない?」
『いや、買い物とかはしてるけどさー、もっと華々しく、街へ出る時におろしたいわけよ、わかる?』
「ちょっとわかる」
同僚はグラスを空にすると、レモンサワーの素と炭酸水をそそいで箸で雑にかき混ぜていた。
『あーめちゃくちゃ飲みに行きたい。テイクアウトも宅配もあるから困んないんだけど、店で飲みたい』
「空いた店で静かにひとり飲みするぶんにはそんなに危なくないと思うけど」
『それじゃつまんないだろー。まじで思うんだけど、全員フェイスシールドしたらよくね?あの透明なやつ』
サンバイザーの進化系みたいなアイテムを着用して人々が日常生活を送るさまを想像すると、半端なSFっぽかった。未来的なのにかっこ悪いというか。
「すっごい変」
『みんながしたら根づくよ、新しい常識としてさ。それ言ったら百年前ってみんなふんどしだろ、女はノーパンだろ。今から考えるとありえないじゃん、それと一緒』
「一緒ではないと思う」
熱弁する喩えがおかしくて、笑った。冷蔵庫の在庫整理で作った桜えび入りの卵焼きは我ながらおいしくて、許されるならドアの前にそっとお届けしたいくらいだ。
『ブランドもののとかできて、有名人がインスタで自撮りあげたらすぐ流行るよ』
そう、病のように。
「じゃあ、いろいろ機能をつけたいな。紫外線防止とか」
『いいねー、内側に付箋貼ったら用事も忘れないしさ。便利』
「前見えねーし。俺は、マジックミラーみたいに外から顔見れないといいと思う」
『何で、怖いよ』
「楽だよ、そもそも見知らぬ人に意味なくさらす理由ってなくない?」
『イスラム教の女子じゃん』
「結婚式の時に初めてシールド上げるんだよ、ヴェールの代わりに。どきどきしない?」
『すんげー博打!どきどきの意味が違う!』
技術が進歩すればフェイスシールドがモニターになってネットやナビやVRもできたりして……世界の痛みとは不釣り合いに軽く無責任な会話は楽しかった。今こうしている間にも誰かが……なんて現実は、それこそ百年前から変わらないはずだ。

ビールを三本たて続けに空けて、酔った。外ではこんな時にもカーステを爆音で流す車がいて、遠く離れて愛は深まる、みたいな歌はこんな時だから深いお告げみたいに聞こえた。
『今、音楽鳴ってる?』
「車から……これ、何ていう歌だっけ?」
『オザケンだろ、「僕らが旅に出る理由」……あー、旅行行きてー。GW、行くはずだったのに』
「どこ?」
『屋久島』
屋久島についての知識など何もなかったけれど、いいね、と頷いた。音楽は遠ざかっていく。きっと信号待ちをしていたのだろう。最後に聞き取れた歌詞は「手を振ってはしばし別れる」だった。頭がくらっとして目を閉じると、まなうらに近くて遠い明かりの景色がよみがえる。
「……うちさあ、実家が23区外で」
『え?うん』
「震災の時、計画停電の地域だったんだ。それがもう、ほんとぎりぎりで、道路一本挟んだ向こうの通りはふつうに電気ついてて」
『うわー、それ悔しいな』
「うん。あっちとこっちと別世界で、あっちは普通に明かりがついてテレビ見られて携帯も充電できて……何だよって思った。でも、全部が真っ暗で、あっちに行きたいって思える世界がないのも、それはそれで困る」
誰かを好きになると、いつも闇の中に沈む自分の世界と、すぐ近くで煌々と灯る光が浮かんだ。明かりの場所で生きたいわけでも、こっちで生きてほしいわけでもない、だからいつも気持ちは行き止まり、ただ離れて見ているだけだった。

『旅行、行こう』
同僚が言った。
『行ける日が来たら』
「うん」
『あとは飲みだろ、焼肉も行きたいし、映画も、カラオケも』
ビアガーデン、野球の試合、サッカーの試合、コンサート、海……同僚の「行こうリスト」は止まらない。
「めちゃめちゃ死亡フラグ立てるな」
『死亡フラグって言うな。希望フラグだよ』
いつか、見えない希望の旗を掲げ、新しい靴で街に出る。その時、隣に自分はいないだろう、と思う。世界が変わっていく狭間の夜にこうして話したことなど忘れ、レギュラーの友達や恋人と新しい世界に踏み出していく。それは薄情でも残酷でもない。
『何したい?フラグ立てろよ』
「もうぜんぶ言われちゃったよ」
『言えって』
「んー……普通に会社行きたい、かな」
『まじめか!』
同僚だから、普通に会社で会いたい。叶えられそうな希望はそれしか思い当たらなかった。
本当は、今、歩いてでも会いに行きたい。できれば夕方、シャッターだらけで人気のない通りを歩き、コンビニやテイクアウトの店を品定めして、ぽつぽつと灯り始める街明かりを見てほっとしたい。夕焼けていく世界の中で、一緒に途方に暮れてみたい。その旗をそっとしまって「もう寝るよ」と別れを告げた。

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