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羽根とハンマー(2018summer)

※夏コミの無料配布折本より。
「Off you go」番外編

「お願いがあるの」と妹が電話をかけてきたのは、まだ梅雨入り前だった。
『今度、雪絵さんがうちをひと晩空けるのね』
「一大事だな、何でまた」
鉄壁の番人兼世話役が、めったなことで十和子をひとり置いて出かけるとは考えられない。こちらとしてはたまにはゆっくり温泉でも浸かってほしいのだが、そう水を向けても頑として首を縦に振らなかった。
『一泊二日の人間ドックホテル宿泊つきプランに行ってもらうの』
別に、どこか不調を感じているわけではないのだが、もう年だし、一度じっくり診てもらえば、と十和子の主治医の紹介もあって断りきれなかったらしい。
『多少強引にしないと、ちっとも自分のために時間を使ってくれないから』
「うん、いいと思うよ」
『でね、もしも何かあったら、ってあんまり気にするから、良時に泊まりに来てもらうからって言っちゃったの、いい?』
「調整するよ」
仕事が仕事だから確約はできないが、まあ別に十和子だけでも平気だろう。密と結婚していた頃だってひとり暮らしだったようなものだし。もっともそう言えば雪絵は、「十和子さんももうお若くないんです」と怒るだろう。とっくに子どもじゃない事実は棚に上げて。

「そうだ、保険で密を用意しとくか。どっちかは休めるだろう」
『電池のスペアみたいに言わないでよ』
十和子はくすくす笑う。両方行ければ両方行くし、どちらも駄目ならそれはその時のこと、という方針で決定した。
『楽しみだわ、お願いしたいこともあるし』
「何だ、今じゃ駄目なのか」
『駄目なの。ちょっと、お使いをね』
そういうわけだからシフトの調整を頼んでおきたい、と翌日会社で密に告げると「勝手に決めんな」とただでさえ不機嫌そうな顔をますますしかめた。

「ちょうどいいだろう?お前、雪絵さんがにらみきかせてると寄りつかないから実家に全然来てないし」
「別に女中の顔色なんか窺ってねえよ、用事がないだけだ」
ソファで読み終えた新聞を床にぽいぽい放り「お前もとことん倒錯してるね」と呆れたように言った。
「何が」
「あいつんとこに俺を派遣しようなんてまともじゃねえなって言ってんだ」
何を今さら、と良時は戸惑った。身体の関係を持っている元義弟をその元妻である妹のところに泊まらせる(ややこしいな)……確かに概要だけなら確かに誰もが眉をひそめる案件だが、ややこしくなる前からの長いつき合いだし、三者三様に納得していて心情的には何のもつれもない。
「お前だって、いずれ三人で暮らそうみたいなこと言ってたじゃないか」
俺は自覚してるからいいんだよ、と密は言い返す。
「大体それも、お前のほうから『実家で暮らしたらどうだ』って持ちかけてきた流れだろうが」
「そうだったか?」
「都合の悪いことはすぐ忘れやがって」
「忘れたふりするやつに言われたくないよ」
しかし、だからといって行かないというわけではなく、日程は合わせてくれるというのだからよく分からない。八月の下旬、幸いにしてふたりとも仕事に邪魔されず、十和子のもとを訪れることができた。

「おかえりなさい。あれ、買ってきてくれた?」
「ああ」
「嬉しい、ずっと食べたかったの。切望してた」
「オーバーな」
手土産兼簡単な夕飯兼つまみをリビングのテーブルに並べ、これも十和子がリクエストしたランブルスコを開けてささやかな晩酌を始めた。切望していたという、お使いのメインももちろん用意する。
「皿に移さなくていいのか?」
「この容器のままがおいしそうなのよ。いいにおい!」

プラスチックのカップの中で立ちこめるソースのにおい。頼まれたのはインスタントやきそばの定番、UFOだった。雪絵がいい顔をしないのと、こっそり食べようにもひとりでは完食できないから機会がなかったらしい。半分以上を皿によそって「はい」と良時に手渡す。こうして十和子が持て余したぶんをきっちり片づけ、あすの朝にはごみを持ち帰って証拠隠滅するまでが仕事と心得ている。良時自身、前に食べたのがいつだか定かでないが(深夜に会社でジャンクフードを食べられる若さがあった時代だろう)、久々に食べるとうまいもんだなと思った。

「きょう、満月よ。来る時見た?」
「いや、まだ見えなかったな」
「夏だし、UFOを食べるのにはぴったりの日じゃない?」
「意味が分からん」
オールドパーをストレートで飲みながら密が言う。
「ねえ、そういえば、昔も実家で三人だけの晩があったじゃない?良時たちが高校生ぐらいの頃」
「また大昔だな、そんなことあったか?」
「あったわよ。どうしてだったかしら……お母さんの、遠い親せきが北海道で披露宴するからって招ばれて……あの時も、雪絵さんに息抜きさせなきゃって連れて行ってたんだわ。勝手にお父さんのブランデー飲んだりして、後で怒られたでしょう」
「覚えてないけど、やらかしたんなら間違いなく密が主犯だよ」
「あの日も満月だったわ」
「ふうん……」

密はここに入り浸っていたものの、親も雪絵も不在で泊まるようなイレギュラーがあったのなら記憶に残っているはずだが、十和子の明瞭な口ぶりと裏腹に、良時はぴんとこない。高校時代そのものがもはや記憶の彼方だからだろうか。
「お前、覚えてるか?」
密に水を向けてみたが、否定も肯定もせず、いつもの皮肉っぽい仕草で肩をすくめ、ドライフィグに歯を立てる。

やきそばもだが、アルコールも十和子はおちょこ一杯程度で満足してしまったので、ランブルスコのボトルはほとんど良時が消費した。密は「ジュースみたいな酒は嫌いだ」と全然手伝わず、自分の好きな酒ばかり飲んでいた。こっちだって、甘い発泡ワインはそんなに好みじゃないのに。ふだん飲みつけない銘柄を頑張ったせいか、早々に酔いが回って「もう寝る」とリビングのソファでタオルケットをひっかけてダウンしたあたりで意識がなくなった。「だらしねえな」と密が笑っていたような気はする。

喉の渇きで目が覚め、台所に行ってごくごく水を飲んでから、磨りガラスの向こうがやけに明るいのに気づいた。窓を開けると見事な満月だ。ああ、十和子が言ってたな。そういえば、密はどこにいるんだろう。宵っ張りだからひとりで飲んでいてもおかしくないのだが、一階には気配がない。客間で勝手に布団を敷いて眠っているのか。勝手は分かっているのだから気遣う必要もないのだが、何となく二階に足が向いた。十和子の部屋から話し声がする。

「ほら見て、すごい月光で地面が明るい。こういうの『月の霜』って言うのよ」
「相変わらず、役にも立たねえことよく知ってるよ」
「役に立つことはいやでも覚えるから、役に立たないことのほうを頑張って知りたいの––––密、月には何がある?」
十和子の問いに、えらく子どもっぽいことを訊くんだな、と階段の途中で足を止めて苦笑した。うさぎだの、アメリカの秘密基地だのと夢のある答えをくれる相手でもないだろうに。妹もわずかなワインで一杯機嫌なのだろうか。密の声がする。

「羽根とハンマー」
何だそれは、と思うのと同時に妹も「なあにそれ」と尋ねた。
「アポロ15号に乗って月面に着陸した宇宙飛行士が、真空下での実験をした時の遺物だよ。『空気のない世界なら羽根と鉄球は同じ速度で落下する』……ガリレオの説を確かめるために」
「持って帰らなかったの?」
「邪魔だったんじゃねえの」
「不法投棄ね、よくないわ。……密も、なかなか役に立たないこと知ってるじゃない?」
「お褒めに与り光栄だよ。お前に合わせてやってんだ」
「羽根とハンマーが一緒に落ちるところ、見てみたいわね。想像するだけでふしぎ」

十和子の前でしか聞けない、ほんのすこしやわらかい密の声。嫉妬はなくて、むしろほっとする––––これは、倒錯なのか。
「空気って、邪魔なのね。生きてて意識することもないのに」
「時々な。もう寝ろ、遅いから」
「ええ、おやすみなさい」
あ、と思って数段下に戻ったが、別に後ろめたい気持ちもないのでそこで留まった。密は廊下に出てくると、すぐ良時に気づいて近づいてくる。
「何だ、起きてたのかよ。慣れねえヘネシーなんか飲むもんじゃねえな」

ヘネシー?違う、俺が飲んだのはランブルスコだろう、お前も酔ってるのか?頭の中の言葉は声にならなかった。やっぱり自分の酩酊がふかいのかもしれない。だって、目の前の密が、密であって密じゃない。アルバムを何ページ遡ったものか、十代のあたりの容姿にしか見えないのだ。立ち尽くしたままぱちぱちとまばたきを繰り返していると、密はその脇をすっとすり抜け「寝る」と言い置いてリビングへ消えていった。良時は呆然と考える。そういえば、俺は会社からそのまま来て、服も着替えず横になったんじゃなかったっけ。なのに、どうして今はポロシャツにジーンズなんだ?

––––あの日も満月だったわ。

十和子の思い出。いや、まさか、そんな馬鹿な。鏡で己を確かめる勇気はなく、ただ密の後を追ってリビングに行くと、さっきまで良時が寝ていたソファに転がっている。家具やカーテンは寝る前と同じだったかどうか、なぜかもう分からなくなった。
「何だよ」
両手を枕にして密が尋ねる。
「さっきから呆けてやがって。どうした?」
とても説明できそうになく、良時は黙ってソファに近づいて屈むと、密の顔を覗き込んだ。やっぱり、若い。若すぎる。夢か、幻覚か、そのミックスか。眼鏡の奥の冴えた目に答えが映り込んででもいるように見つめた。それは見つめられていることでもあった。

「おまえ」
密がつぶやく。
「……誰だ?」
俺が訊きたい。俺は誰だ、お前は誰だ、今はいつで、ここはどこだ。でもやはり何も言えなかったのは、密が警戒も敵意も浮かべておらず、むしろ愉しげだったからだ。
「……嬉しそうだな」
初めて発した声は、聞き慣れた自分のものだった、と思う。
「そうだな」
密は片手を伸ばして良時の頬に触れた。室内は涼しいのにすこし汗ばんでいて、この空間で唯一現実的な、生々しい気配だった。
「空気がなくなったみたいな、いい気分だよ」
羽根の軽さとハンマーの重さが等しいところ。同じ速さで(あるいはのろさで)落ちていくところ。互いの感情や秘密のアンバランスを無視して。
傍にいて当たり前の、空気みたいな存在だった。きっと三人が三人ともにとって。遠く離れて見えない場所にいても、ある。なくてはならないけれど、空気は抵抗する。空気に遮られてどこにも着地できないものが自分たちの周りにはずっと漂い続けていなかったか。
今は空気がない。密じゃない密、良時じゃない良時だから。月光に真空パックされた夜の底で、そっと身体を重ねる。

朝、目が覚めると、情けなくも夢精していないか確かめてしまった(大丈夫だった)。密も十和子も、ゆうべと変わったようすはどこにもなかった。夢だな、と思う。どこまでか、どこからか、それが問題だが、雪絵に「うちの親と北海道に行ったことがあったっけ」と裏を取ることはしないだろう。
ごみの袋を持って密と家を出る。月とは比べものにならないまばゆさの陽光がたちまち一夜を幻にして、良時はいずれ忘れてしまうのかもしれない。

「俺は、やっぱり倒錯してるんだろうな」
密に言った。
「やっと気づいたか」
「うん」
夜中に抱いた身体のニュアンスは、かろうじて淡雪のように残っている。良時の中から消えても、きっと遠い月面に、羽根やハンマーと一緒に。
「おかしければおかしいほど、ずっと一緒にいられる気がして」
密は何も言わず、ちょっと笑った。八月の光はその反面に濃い葉影を落とす。生ぬるい空気の中を、ふたりで泳ぐように歩いていく。

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