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ラフ

「ラブ」発売記念こばなし。明渡と苑。本編読了後にどうぞ。

二月中に引っ越す予定がずれ込み、結局、新居に入れたのは四月になってからだった。明渡が今住んでいるマンションの三フロア上に2LDKの部屋があり、現在の店子が一月末で退居するというのでそのタイミングで移るはずだったが、成人の日に大家さんから電話がかかってきた。「九階のお部屋のことなんだけどね」と申し訳なさそうに切り出す。

––––今住んでるご夫婦の、旦那さんのほうがね、スノボで足を骨折しちゃったんですって。しばらく入院しなくちゃいけないから、退居の日を延ばしてもらえないかって……。

そういう事情なら、と明渡は快諾し、苑にも別に異論はなかった。急いでいないし、どうせ業者を手配する予定もない気楽なマンション内お引っ越しだ。
予定から約二カ月遅れで三月下旬に部屋が空くと、ハウスクリーニングを待ってじょじょに荷物を移動させ、不用品を処分して新しい家具を届けてもらった。そして、きょうは元の部屋での最後の作業、引き渡し前の掃除をふたりですませた。室内はすでに空っぽだからどこを拭くのも掃くのも遮るものがなくて気持ちいい。

「これで終了?」
シンクを磨き上げて明渡が尋ねる。
「うん。鍵はきょう返すんだっけ?」
「いや、あした立ち会いして返却。俺がやっとくから」
「ありがとう。ちょっと早いけど夕飯の買い物行こっか」
「おう––––あ、ちょっと待って」
明渡は寝室だった部屋の真ん中に立ち、なぜかちょいちょいと苑を手招きした。
「なに?」
「見てみ」
と指差した先はベッドのあった部分で、そこだけ日に当たっていないため長方形に切り取られたようにフローリングの色がうすくなっている。
「くっきりだね」
明渡が(短い間、苑も)暮らしていた痕跡。証拠。
「クリーニングしたらなくなるんだよなー」
「次に住む人にはそうじゃなきゃ困る」
「そりゃそうだけどさ」
ベッドの痕の上にごろりと寝転がる。エアベッド、すなわちただの床。
「最後だし、昼寝し納めてこーぜ」
「床で?」
「掃除したばっかだからきれいだろ」
同じ建物だから特に感傷はないし、昼寝なら新居に届いた新品のベッドでするほうが絶対快適だ。気が進まない。しかし早く早くと急かされて、しぶしぶ明渡の隣に横たわった。当たり前だけど硬い。

「ベッドの高さがないだけで天井めちゃ遠い感じすんな」
「うん」
すぐ起き上がるつもりだったのに、掃除の疲れも手伝ってか、夜何食べるとか桜散っちゃったなとかとりとめもなく話しているうち、互いの声はとろりとゆるみ、途切れていった。

目が覚める。すぐ隣に明渡がいる。
––––あれ、こんな顔だったっけ?
ぼんやりした頭でぼんやり訝しむ。
––––明渡、いつ大人になったんだろ。
でもすぐに現実の感覚を取り戻し、ふたりともがとっくに大人だと思い至った。床に寝ていたせいだ。実家のふとんに明渡が潜り込んできていた学生時代に心だけ一瞬巻き戻ってしまったらしい。
大人になったなあ、と寝顔を見ながら親みたいな感慨に浸っていると、明渡もゆっくりと目を開けた。

「んー……今、何時?」
「分かんない。夕方」
カーテンのない部屋に射し込む光の色も角度も、眠る前と違う。暖かい日だったので換気のために細く開けていた窓から、この春の置き土産みたいな桜の花びらが一枚、入り込んできた。腰や背中はすこし痛いが健康で、差し迫った懸念もこれといった悩みもない、暑くも寒くもない穏やかな春の夕方。何でもない日、でもこんなふうに過ごせる日は人生であと何度巡ってくるだろう?こんなにもあっという間に大人になってしまったのに。
だから今が、嬉しい。

「……何だよ。何笑ってんの」
「明渡だよ」
「ん?」
「起きて目が合うと、いつも笑ってる」
本当は、笑ってくれる、と言いたかったのに。
「俺、アホみたいじゃねーか……」
「そんなこと言ってない」
「顔に書いてある」
「うそつき……」
「まじだよ、ほら、ここ」
そんなのは口実に決まっている。近づいて、この部屋で最後のキスをするための。
「あー、腹減ったな。きょうは蕎麦!」
「案外そういうしきたりに忠実だよね」
「でも肉も食いたいからステーキと蕎麦?」
「どっちか諦めなよ」
花びらをつまみ上げ、部屋を出る。スーパーに向かうと、暮れ方の空では細い三日目が笑っていた。もうすぐ、太陽を追いかけて沈んでいく月だ。


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