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ぶどうがみるゆめ

(2016winter/冬コミ配布の無料小冊子再録/「街の灯ひとつ」片喰と初鹿野)

片喰がたいそう珍しいことを言い出したのは九月の話だ。

「あの、今度、取材に行こうと思ってて」

「取材? 何の?」

「絵本……」

といつもよりさらにはにかんで片喰は答えた。有名な作家の掌編に、漫画家が挿画をつけた絵本をシリーズで刊行しよう、という企画が出版社で立ち上がり、片喰もそのラインナップに加えてもらうことになったのだという。

「へえ、いいじゃん。お前の絵、絵本に向いてると思うよ」

「そ、そうかな」

漫画家としては引退状態で、本人も「それでいい」と欲を見せないのに、もう一度、「片喰鉄」の名前がクレジットされる仕事を引き受ける気になったのはすごくいいことだと思った。

「そっか、話があらかじめ用意されてりゃ絵描けるんだもんな。原作付きとかやんないの? 今結構流行ってるじゃん」

「んー……話がないわけじゃないけど、人のイメージとすり合わせるのって難しいから、がっつりやり取りするのは荷が重くて……や、あの、楽なほうに流れてちゃいけないっていうのはつねづね思ってるんだけど、その……」

「そんなのいいじゃん別に」

ちょっと目を離すと自己嫌悪の坂を転がり落ちそうになるので、都度腕を掴んで引き戻さなければならない。ふしぎと片喰だったらうざくない、いやもはやうざいうざくないの話じゃなくて、こういうやつだから引っ張り上げるのが自分の役目、という悟りというか納得のような感情が初鹿野にはある。

「誰にも迷惑掛けずにめしが食えてんならさ。傍から見てて、片喰が楽な仕事してるとは思わないし」

「そ、そうかな」

「絵本は、話書いた人とやり取りしなくてすむの?」

「あ、もう死んでるから……宮沢賢治」

「すげーな、宮沢賢治とコラボすんの?」

「違う違う、そんなんじゃなくって、有名な人のマイナー名作集みたいな感じで、小学校に上がるくらいの子たちに読んでほしいってコンセプトだから」

「で、取材ってどこに行くの?」

「日帰りで、甲府のぶどう園までちょっと」

見学と撮影はすでにメールで依頼し、快諾してもらったのだという。片喰は対面だときょどりがちなだけで、社会人としてのコミュニケーションはちゃんと取れる。

「甲府のどのへん?」

「南アルプス市、だったと思う」

初鹿野の頭に浮かんだのは、南アルプス天然水のパッケージと、山裾に広がるぶどう畑の光景だった。うんいいね、きれいだね、行ったことないけど、ていうか。

「駄目じゃん」

「えっ」

「はっきり言って田舎だろ、しかも農園だろ、めっちゃ空ひらけてんじゃねーの。死んじゃうから駄目」

広場恐怖症のくせに、何をのこのこ危険地帯に出向こうとしているのか。

「し、死にはしないと思う」

「どうしても現地行かなきゃ駄目なのか? 写真か動画送ってもらうんじゃなくて?」

「せっかくだから……自然の中の話だし、空気の感じとか……あっ、うまく描ける自信はないんだけど、一応、できることはしようかなって……ほら、でもほんとに東京からそんなに遠くなくて……」

と、交通系アプリのルート探索画面をひらいてみせた。確かに、電車に乗っている時間は二時間程度だが。

「……最寄り駅から徒歩八〇分?」

「うん」

「どーすんのこれ」

「歩こうかなって……」

「ばかたれ」

耳たぶを引っ張る。

「いてっ」

「何で俺に頼まないの? 車ぐらいいつでも出すじゃん。レンタカーだけど。先方は土日じゃ都合悪い?」

「そ、そんなことないけど、悪いし……」

「何が?」

「休日使ってもらうのは……俺運転できないから初鹿野にばっか負担かかっちゃうし、どんくさいから写真撮るのも時間かかるかもしれないし……取材もひとりでできないの恥ずかしいし……」

「で?」

二本の指で耳たぶを挟んだままじっと顔を覗き込んでやると、うつむいた片喰の首から上はみるみる赤くなり、耳も染まった。指先にピンクが伝染りそう。

「ん?」

「……い、一緒に来てください、お願いします」

「はい、よくできました」

ほのぬくい耳たぶに唇を寄せて甘噛みすると片喰は「あああ……」とへなへなした声を出す。

「ごめんな、痛かった?」

「いた、痛くないです、はい」

片喰の手は、初鹿野を抱きしめようと、携帯の置き場をおろおろ探している。


翌週末、お日柄は知らないがお天気はよい土曜日、遠出のドライブへ出かけた。

「そーいや片喰が絵描くのってどんな話? 俺『銀河鉄道の夜』か『注文の多い料理店』しか知らない」

「野ぶどうの話」

と片喰は答えた。

「野ぶどうが虹に憧れてる話」

「あー、メルヘンだね。ぶどうって言ったらあれ思い出すよな、イソップだっけ?『すっぱいぶどう』」

「あのきつね、かわいそう」

「大人になってからのほうがいろいろ身につまされるよな。あれの逆で『甘いレモン』ってあるの知ってた?」

「そうなの?」

「童話としてって意味じゃなくて、誰かが後からくっつけた概念なんだろうけど、せっかく手に入れたものだから、いろんなマイナスに目をつむって見ないようにする、っていうの」

「なるほど……」

「まー、中にはお前みたく、何の無理もせず信じ込める人間もいるんだろうけど」

探せばどこにでもある、まあありふれたレモンが甘くて特別だと。レモンのほうとしては、この夢が覚めてくれませんようにと祈るほかない。

朝東京を出発し、休憩を挟んで昼前にはお利口なカーナビが農園に導いてくれた。野ぶどう、というものを初鹿野は初めて見た。背丈ほどのぶどう棚に、蔓と、ふちがぎざぎざの葉がわさわさ絡み、果実はブルーベリー程度の大きさだった。緑がかったのから鮮やかに青いの、赤紫、ひとつひとつ微妙に色が違っていて、お子さま用の宝石箱の中身めいている。

「きれーだな」

「うん」

片喰はデジカメを構え、写真を撮りまくったり鉛筆を素早く走らせてスケッチしたりで、今ばかりは空の広さに怯える暇もなさそうだった。こうして仕事に集中しきっている時はかなりかっこいいと思うのだけれど、今言ったら途端にあわあわしてしまうだろうから自重した。社会不適合者みたいなふりして––––いやふりじゃないけど、ちょっとそういうところあるけど、迷いは長くても、結論さえ出れば片喰はちゃんとやり抜く。過保護にしたり気を揉んだりって余計なお世話なのかも、と初鹿野は思った。俺がやいやい言わなくたって、自分のことは自分で把握してる。

急に寂しくなり、頭を切り換えるため「これって食べられるんですか?」と農園のオーナーに訊くと、食用ではなく煎じて茶にしたり、漬け込んで酒にしたりするのだという。

「肝臓にいいんだ。ホワイトリカーに漬けてね、二、三カ月」

「へえ」

せっかくなのでデートの記念かねて買って帰り、広口瓶に漬けて片喰の家に預けておいた。

そしてそのこともすっかり忘れた十二月、クリスマスの週末にお邪魔すると、片喰がおずおずと平たい包みを差し出してきた。赤い包装紙に金色のリボン、申し分のないクリスマスラッピング。

「これ、前描いてた絵本……見本誌もらったから……」

「おっ、できたんだ、くれんの? 読んでいい?」

「うん」

A4よりすこし大きな正方形の本を開く。「野ぶどうと虹」というタイトルだった。短い物語を読み始めてすぐに、なぜ片喰が積極的に取り組んだのか分かった。

ちいさな山の上、虹のように熟れる野ぶどうが本物の虹に焦がれる。

––––どうか私のうやまいを受けとって下さい。

––––私を教えて下さい。私を連れて行って下さい。私はどんなことでもいたします。

虹は、優しく野ぶどうを諭す。この世のあらゆるものたちが等しく美しく、等しく尊く、等しく儚いことを。そして、消えていく。

秋、一緒に見た、野ぶどうのちいさな粒は確かに虹のような彩りを持っていた。記憶より鮮やかに、片喰の手で紙の中に生きている。

「ほんとは、『めくらぶどうと虹』ってタイトルなんだって」

ページをめくり終えると、片喰が言った。

「そうなんだ」

「うん。ちょっと言葉がきついからって、野ぶどうに変えたんだけど、俺は元のほうが好き」

恋は盲目、だから。

「片喰は、これ読んで、どう思った?」

なぜか、軽く緊張して尋ねる。

「失恋してかわいそう」

「え?」

「えっと……あなたが特別だってこんなに言ってるのに、いえいえ皆さんそうですよってかわされたらそれは失恋じゃないのかなって。皆そうなのに特別だから特別なんであって……」

「……へえ」

「え、あれ、俺また何かへんなこと言ってる?」

「いや、想定外だけどお前らしいし……」

何でも顔に出て分かりやすいのに、思考回路が読み切れない。初鹿野が笑うと、片喰は何かを決心したようにぎゅっと手を握ってきた。

「は、初鹿野、あの、あのね」

「ん?」

たちまち熟れて赤くなる顔。

「この前言われたこと、ずっと考えてたんだ。ぶどうとレモンの話……初鹿野は、俺がバカだから盲目的で、甘いレモンの状態だって思ってるのかもしれないけど、でもぶどうだから。初鹿野は俺にとってずっと甘いぶどうで、だから手に取ったり口に入れたりなんかできるわけがなくて、遠くに実ってるのをずっと見上げてるだけなんだろうって思ってた」

こんなに長い台詞を、初鹿野から目を逸らさず言うのはまれだった。もう努力のほどがうかがえすぎると言うか、のぼせすぎて鼻血でも出しそうな顔色だけど。困ったな、と思う。甘いぶどうでいられるように頑張りたいのはやまやまだけど、初鹿野はずっとごく普通の人生を歩んできた一般人なので維持するべき特別などないのだった。

「いやでもさ、そーゆーのを引っくるめて甘いレモンだって俺は思ってるわけで、いつか現実に返ったらお前はすごーくひどい仕打ちを俺にしてることになるよ? だから言ったじゃんって話になるよ?」

「現実だよ」

片喰は言い切った。

「現実だよ、だって初鹿野はここにいるんだから」

「……お前はずるいよ」

たぶん、ずっと平行線なのだ。恋愛のいちばん肝の部分で永遠に分かり合えない。すごく絶望的な気もするのに、この汗ばんだ手のひら、ふるえる指。きれいな絵を描く手。片喰のほうこそ、初鹿野の夢なのかもしれない。目をつむり、覚める瞬間までは幸せでいられる夢。

「クリスマスだし、野ぶどう酒開けてみるか」

ちょうど飲み頃のはず、とコップにごく浅く注いで乾杯し、ふたり同時に口をつけ、ふたり同時に微妙な表情になった。

「んー……ま、まずくはないけど」

「薬用だし、がぶがぶ飲むもんじゃないんだろうな」

というわけで、初鹿野の持ち込んだ普通のぶどう酒を飲んだ。赤くて甘いやつだ。飲んだらごきげんになって、片喰を襲った。

––––そこで野ぶどうの青じろい樹液は、はげしくはげしく波うちました。

そんな絵本の一節が頭をよぎった瞬間、ひどく興奮せずにいられなかった。

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