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てらして

※「ふさいで」重版御礼こばなし。睦人の話。

 あの日、幼い子どもには何かしらの予感があったのだろうか。きっと、本人に訊いても「知らなーい」とけらけら笑うだけだろう。

「パパ! 起きて!」
 息子の声で眠りを破られ、続いてどさっと乗っかってきた重みにうめく。
「おはよう! 散歩行こ!」
「え〜……?」
 ベッドサイドの時計を確かめると、まだ五時前だった。平日はうだうだと寝たがるくせに、なぜ土日に限って早起きするのか。
「宗太早すぎ、勘弁して。まだ外暗いしもうちょっと寝てな」
「やだ、もう眠くないもん!」
「パパは超眠い」
「だめ!」
 布団をかぶったが、「パパー!」と激しく揺さぶられる。
「行くの!」

 いつもはもっと聞き分けがいいのに。最近仕事が押して構ってやれてなかったわけでもないのにな、とふしぎに思っていると、隣で寝ていた妻が「行ってきなよ」と促した。こちらに背を向けながらだから、ひとりで安眠を享受しようと目論んでいるのは明白だ。
「ついでにジョナサンで朝ごはん食べてきたらいいじゃん。わたしにも何か買ってきてくれたらいいじゃん」
「やったー‼︎」
 宗太が馬乗りのままばんざいする。
「こら、揺らすなってば……今週はうららさんが朝食当番だろ」
「いいじゃんいいじゃん、細かいことはさ〜。ほらほら、行ってらっしゃい。『久樹』のパンがいいな〜」
「開くの八時なんだけど」
 しぶしぶ起き出し、身支度してあくびまじりに靴を履く。宗太は「ジョナサーン」と早くも飛び跳ねそうにはしゃいでいる。
「朝だから静かに……ジョナサンそんなに嬉しい?」
「うん!」
 睦人の手をぎゅっと握って頷く。
「だってママの朝ごはん、いっつもトーストとゆで卵だけでつまんないもん」
 こら、と不平をたしなめた。
「そんなこと言っちゃだめだろ。人が自分にしてくれることで、『当たり前』はないんだよ」
「はい、ごめんなさい」
 目を合わせて語りかけると、宗太も逸らさずに謝った。
「うん、行こう」
 熱海に住んで十年近くになるが、気軽に海を目指せるだけでぜいたくなところだと、子どもが生まれてからより実感するようになった。リゾート地の透き通るビーチにはかなわないまでも、夏は水遊びも楽しめる。いい土地だな、と思うたび、もう会えなくなった友達の顔が浮かんで苦しい。いい土地だな、と栄に言いたい。それで、「どこがだよ」と返ってくる憎まれ口を聞きたい。

 ––––どういうことだ?

 それが、最後に聞いた声。あの時栄は、確かに怒っていた。胸ぐらを掴む手でいつ殴りかかってきてもおかしくないほど、激怒していた。当たり前だ。
 でも、どうしてだろう、月日が経ち、事実が記憶になっていけばいくほど、泣きそうな顔だった、と思う。栄が泣くところなんて見たことないのに。
 繋がりはまだある。働いている場所が分かっていて、栄の番組も見ていた。報道にいた頃とはまったく違うものを作っていても、栄の仕事は栄の仕事だった。投げやりな言動と裏腹に細やかで丁寧で、でもそれを分かってほしいとか評価されたいという欲や媚びの匂いがかけらもしない。ぶっきらぼうで潔い、睦人の友達。
 会って謝りたい、と頼めば設楽は聞いてくれるだろう。それをしないのは、怖いからだ。設楽も分かっているから、「会うか?」とは言ってこない。
 番組ひとつつぶして、関わった人間の人生をすくなからず変えて、そんな顛末は、やる前にだってたやすく想像できた。分かっているし、覚悟を決めたつもりでいた。自分はまだ若くおろかで、暴挙の結果が時間とともにどんどん重くなっていくことを知らなかった。あんだけのことしといて、自分は生活立て直して、結婚してガキ作ってお幸せに暮らしてんのかよ、ともしも栄に言われたら、どうすればいいのか。
 そんなやつじゃない、と思う。でも、あいつだって、俺があんなことする人間だなんて、考えもしなかっただろう。
「もうすぐ朝だよ」
 砂浜を踏みながら、宗太が無邪気に言う。
「うん、いい天気になりそうだな。あんまり波打ち際に行くなよ、濡れるぞ」
「へーき!」
 夜のうちに満ちた潮の跡が、くっきりと砂の色を濃くして残っている。初めてここにきた朝から、何度満ちて引いてを繰り返したきたのだろう。そしてこの先も。
 あと何回、満ちて引いたら、俺はお前に会える?
「パパ!」
 宗太が叫んだ。何か面白いものでも打ち上げられていたのだろうか。振り返る。

 振り返った。

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