見出し画像

林檎可愛や(2018autumn)

10月のJ.GARDENで配布した折り本のこばなしです。林檎の先生と結城兄妹

秋晴れのカフェのテラス席で、黒板に書かれた文字を見て桂がつぶやいた。
「毎年思うんだけど、いつから日本てこんなにハロウィン推しになったんだろう」
黒板には、ジャック・オ・ランタンのイラストと、かぼちゃメニューのラインナップがチョークで書いてある。
「俺がちっさい頃は、何かそういうの『ある』ってだけだったのに」
「でも、本場で何してるのかって実は今も知らないよね。仮装とトリックオアトリートだけなのかな」
「一年に一回、あの世とつながる日だっていうから、もっと闇深いことやってそうだけどなー」
「あと十年もすれば、ハロウィンしてなかったなんて信じられないって言われるかも」
土用のうなぎも、クリスマスケーキも、バレンタインのチョコレートも誰かの戦略ありきで広まったのだから――そういえばみんな食べものだ、と志緒は思った。

「そして、ハロウィンは、いつからこんなにりんご推しになったのかな」
「え? あ、ほんとだ」
テーブルのメニュー表にはハロウィン期間限定のりんごを使ったフードやドリンクもおすすめされていた。二つ折りで自立する黒板の向こう側にも書かれているのだろう。
「そういえば、先週テレビでやってたよ。収穫時期とかぶるし、外国じゃかぼちゃよりりんごがメジャーだとか。妹が食いついて見てた」
「まあ、かぼちゃって万人に好かれる食材じゃないし、りんごのほうがなじみいいよね。何でもっと早くその情報を取り入れなかったんだっていう……りんごのやつ、何か頼む?」
いい、と志緒はかぶりを振った。
「父親が、仕事先の人からもらったりんごがひと箱あって、毎日朝晩食べてる」
「健康的じゃん」
「妹が二個ずつ剥くから」
「えらいね、幼稚園のうちからそんなまめにお手伝いして」
「違うよ」
動機はいたって利己的かつくだらない。
「その、先週のテレビで、ハロウィンのりんご小ネタみたいなのやってて、りんごの皮がつながった状態で剥けたら、それを投げると、将来の伴侶のイニシャルになってるっていう……」
言い終わる前から桂は笑っていた。
「それ真に受けて、自主トレ頑張ってんの? かわいいなあ」
「そう。笑いごとじゃないよ、刃物使うから誰かがずっと傍でつきっきりになってなきゃなんないし、今んとこ毎回失敗して毎回しょんぼりするからフォローするのも大変だし、はっきり言ってりんご食べ飽きたし」
「いやいや、かわいいじゃん。うまく剥けて、イニシャルPとかだったらどうすんだろ、国際結婚の予感?」
「最近の名づけはフリーダムだから日本人でもピーターとかポールとかいても驚かないかも」
幼稚園のお迎えを仰せつかって行くと、先生が呼ぶほかのお子さんの名前に動揺を隠せない時がままある。
「ピーターの漢字は?」
「日々の日に太い?」
「字面だけ見るとそんな悪くねーな……ポールは?」
「棒」
「ひでえ」
結局、りんごもかぼちゃも頼まず、コーヒーだけ飲んだ。
「皮剥き、志緒ちゃんがしたらどうなるかな」
「しないよ、ばかばかしい……」
「妹ちゃんのお相手のイニシャルが分かったらぜひ教えて」
「何で」
「志緒ちゃんはすぐ忘れそうだから、俺が覚えてて、二十年後ぐらいに答え合わせしてあげる」
「結婚しないかもしれないし」
志緒は言った。
「別にしたくなくてしないのかもしれないし、したくてもできないのかもしれないし」
「未来ある幼児にそういうこと言うなよ……」

家に帰って夕食を終えると、美夏はまた張り切ってりんごを剥き出した。が、例によってうまくいかない。「幅を太く剥けば短くてすむ」と子どもなりに考えているらしいのだが、力めば刃が果肉に深く刺さり、結果ぶちぶちと切れる。その日も二個、失敗した。
「んん~……」
「ほら、でもちょっとずつじょうずになってるから」
母親がなだめて「あしたの朝はりんごのパンケーキにしようね」と言った。
「じゃあ美夏、あしたは剥くなよ」
「何で!」
「そんなにりんごばっかり食べたくない」
「あと一週間だから我慢してあげてよ」
三センチほどでちぎれてしまった皮をしばらく両手でいじっていた妹が、不意に「そうだ!」と顔を上げた。
「きょうね、幼稚園でありすちゃんに聞いたの。ハロウィンの真夜中に、りんごを食べて鏡を見ると、『うんめいのあいて』が映ってるんだって! みーやりたい!」
ありすちゃん、いったいどこからそんなうさんくさい情報を?
「だから、ハロウィンの夜はみー夜更かしするけどいいよね?」
「できるわけないだろ」
と志緒は一蹴した。食事、風呂、読み聞かせですぐにことんと寝入ってしまう健やかな妹のことだから。
「できるもん!」
「ていうか、そんなの映るわけないから」
「何で? しーちゃんやったことあるの?」
「やらなくても分かる」
「どーしてー?」
美夏はテーブルをぐるっと回り込んで志緒の膝によじ登ってきた。
「こら、手洗え」
「やってもないことが、どうして『わけない』って分かるのー?」

いや分かるよ、当たり前だろ。鏡に、いもしない相手が、しかもハロウィンの夜、りんごを食べて、なんて特殊な条件下のもとで現れるわけがない。そんな現象があってたまるか。六歳児に常識を説いたって仕方がないので適当にあしらったが、桂に電話でその話をしたら「そういうの聞くと、ああ志緒ちゃんの妹だなーって思う」と言われた。
「何で」
『やってもないのにどうして分かるの、って、いかにも君が言いそうじゃないですか』
「納得がいかない」
『まあその、内容に差はあるんだけど、根底のスピリットが同じつうか。いいじゃん、協力してやれば。理系なんだから、検証もせずに否定してちゃ駄目だろー』
完全に面白がられてる、と思う。

それからも朝晩のりんごはアップルパイになったりジャムになったりしつつ続いたが、ハロウィン当日の朝になっても、妹はりんごひとつ、皮を切らさず剥ききることができなかった。傍目にも上達はしているのだが、あと一歩のところで集中が切れるようだ。
「できない……どうしよう……」
いやどうしようも何も、と半べそをかく妹を見て思ったが、登園バスの時間に迫られている父親は「だーいじょうぶだよ」と空々しいほど明るく励ました。とにかく機嫌を直してもらって、早く送り出さねば、と思ったのだろう。
「まだ将来の結婚相手が決まってないのかもしれないよ?」
「そんなのやだ!」
「ずーっとおうちにいてくれるほうがパパは嬉しいな~」
「やだってば! 何でそんな意地悪言うの? パパのバカっ!」
志緒はコーヒーカップをテーブルに置いて「いい加減にしろよ」と言った。
「父さんにバカとか言うな。そんなことでめそめそしてるほうがバカに決まってる」
美夏の瞳はみるみるふやふやと涙でぼやけ、そして最初のひと粒がこぼれたと同時に大音量で泣き出した。
「ああ~……志緒、ありがたいんだけどもうちょっと言葉選ぼうね。ほら、ほら、みーちゃん幼稚園行くよ」
たちまち顔を真っ赤にして泣く妹を、半ば無理やり抱え上げて父は慌ただしく家を出て行った。母のため息が、志緒の肩身を狭くする。
「……おとなげない」
「分かってる」
明け方まで勉強していて(そしてあまり実になった手応えがなくて)、眠いし頭も痛いし、あまりコンディションが上がらないところへもっての騒ぎだったで、必要以上にとげがあったと思う。

『未来って、そんな知りたいかな?』
昼休み、学食でLINEを送った。
『運命の人のイニシャルとか鏡に映るとか、本当にそんなの分かったら、怖くない?』
とんでもないおっさんとか現れたらどうすんだよ――いや、現れないけど。
『未来が怖いって、本当に来た、未来の蓄積を経験してないと分かんないんじゃない?』
と返信があった。未来の蓄積、要するに過去だ。一秒ごとに降り積もっていく、未来の残骸。それはいいものばかりじゃなく、こうなるはずだった、こうするはずだった、黒い足跡が刻まれていたりもする。未来は、夢や願望の具現じゃない。その苦い味を、まだ新品の魂はよく知らない。
『俺も今は、たとえば自分が何歳で死ぬかなんて、絶対教えてほしくないけど、子どもの時なら平気だったかもね』

犬や猫には「未来」の概念がない、と聞いたことがある。だから、今この瞬間の散歩や餌や眠りがすべて。明るい未来しかないと思い込んでいる妹は、たぶん言ってみれば人間の途上。志緒は、志緒の鏡に永遠に桂が映り続けるかどうか知らないから、続けていける気がしている。ぼんやり考え込んでいると『きょうは優しくしてあげな』と届いて、それは確かにそうだと思った。

夕方、お詫びとお土産にケーキを買って帰ると、妹はすっかりごきげんで、「見てっ」とちいさな赤い実を突き出してきた。普通のものよりだいぶちいさい、姫りんごだ。
「幼稚園でもらったの! あ、あ、あっぷるなんとか……」
「アップルボビングね」と母が助け船を出した。
「水を張ったたらいにりんごを浮かべて、手を使わずに取る遊びなんだって」
それもハロウィンの定番で、子どもたち用に姫りんごを用意してくれたらしい。
「みー、いちばんに取れたんだよ、すごくない? ねえすごくない?」
「はいはい」
反省して損した、と思わないでもないが、この幼いタフさと明るさに大人はいつも救われている。そして夕食後、ミニチュアみたいな姫りんごに美夏が挑むと、手の大きさとぴったり合うからか、スムーズに皮剥きを完遂することができた。わあすごいね、と両親が拍手し、お兄ちゃんもお義理で数回手を叩いた。
「じゃあねえ、投げるよ……えいっ!」
左肩越し(そういうルールらしい)に皮を投げ、すぐさま振り返って床に落ちたそれのかたちを確かめる。

「……『の』?」
確かにそう、見えなくもなかった。「の」じゃ駄目だろ、と言おうとしたが、そもそもイニシャルの概念を理解していない美夏は「『の』かあ」と嬉しそうににんまりしたので、家族全員「じゃあ『の』ってことで」と頷き合った。

一応、十一時頃起こしてみたが、妹は目覚める気配すら見せなかった。やっぱりな、と自分の部屋に戻るとLINEが届く。
『ハロウィンプロジェクトはどうなった?』
『半分くらい成功?』
『何だそりゃ』
志緒は、会いたい、と送った。
『会いに行ってもいい?』
『もちろん』
コスプレ期待していい? とつけ足されたがそれは無視する。両親は早々に寝入ったらしく、家じゅうが静まりかえっていた。あの世とつながる夜にふさわしい。志緒は冷蔵庫からりんごを取り出し、母親の手順を頭で追いながらりんごバターを作った。まだ温かいままガラスの瓶に詰めて出かける。夜はひえるから、かいろ代わりにちょうどいい。ハロウィンらしく、ほうきに乗ってひとっ飛び……はできないけれど、夜空の隅っこを掠めたほうき星は見えた。星の光は、過去の光。

志緒は、十五歳の志緒は、たとえば片想いの結末を誰かが教えてくれると言ったら、どうしただろう? 叶うか叶わないかの二択――きっといらないと答えた。どっちにしろ、桂を好きなことに変わりはないから。未来は関係ないから。それは、大人の意見か子どもの意見か。桂は何と言うだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?