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fhána「愛のシュプリーム!」感想~愛とカルチャーに贈る不屈の讃歌~

はじめに~fhána史上最大の好機とハードル~

こんにちは、いち亀です。久しぶりのfhána新盤語りです。

前回のシングル「星をあつめて」のリリースが2020年2月下旬。既に国内でも新型コロナの感染は確認されて、休校やらイベント中止やらで混乱が広がっていた頃……でしたが。


それから1年以上もfhánaの現地ライブが「できない」状況になるとは、考えていなかった気がします。アニメ業界にも混乱が波及したことでタイアップも延期になったでしょうし、アーティストもリスナーもやるせなさの募る時期だったと思います。だった、というよりも現在進行形ですが(流石にもう折り返しは過ぎているはず)

その中でも、配信ライブでは配信ならではの感動を届けてくれたり、ファンがコーラス参加する曲ができたり、ファンクラブでのZoomミーティングが盛り上がったり……fhánaのタフネスとクリエイティビティが、時代の波こそ乗りこなす工夫(K.U.F.U)が随所に感じられました。その情熱と愛こそシュプリーム。

で・す・が!

やはりfhánaのアニソンが聴きたいし、無言地蔵でもいいからfhána生麺に会いたい! という望みも強くなっていました。そんな折に、

日本、いや世界、いや宇宙が誇る京都アニメーションの新作TVシリーズ。それもfhána史どころかアニソン史を塗り替えた「青空のラプソディ」、その相棒だった「小林さんちのメイドラゴン」の続編です。ふぁなみりーのみならず、世界じゅうのオタクが湧き立つ続編。

さ・ら・に!

(開催できる状況か読み切れないのが本音、だけど!)

2年近くぶりの現地ライブです。止まっていたオタクの時間がまた動きだす。

https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1626168905&utm_source=twitter&utm_medium=social

「愛のシュプリーム!」TVサイズは武本監督のタイミングで動きだしており、フルのレコーディングも2020年4月に行われていたそうです。このことから、あの喪失や今の閉塞感が曲全体の出発である……という言い方はしにくいのですが。
喪失からの再生と、閉塞の打破。それらを象徴する最高のタッグとして「小林さんちのメイドラゴンS」「愛のシュプリーム!」に期待を寄せていた人は、僕を含めて少なくないと思うのです。

その意味でこの曲は、fhánaにとってこれまでにない大チャンスであり、同時に「パッとしなかったら各方面にすごくマズイ」状況だったように思えます。「青空のラプソディ」に並ぶ魅力を出しつつ、二番煎じになるのも違うよね、というハードル。

いわば3点負けの9回裏、2アウトで満塁の「ここはホームランしかねえ!」「打てって言われて打てるかい!」という状況で。
しっかりホームランを打ったな、というのが今の印象です。

それでは曲の話にいきましょう。

「愛のシュプリーム!」で炸裂したポップセンスとリスペクト

イントロや間奏で繰り返されるのは、ガヤ混じりのコーラス(ガヤは「青空のラプソディ」素材のリサイクルとのこと)

MVでのダンサーさんも込みで、ここはまさにゴスペル風味。正確には、「天使にラブソングを」とかで日本で広まったイメージのゴスペル……ですね。曲調ではなくクリスチャン的な精神性(が反映された歌詞やスタンス)によって規定されるのがゴスペルなので、本場の楽曲はかなり多様です。
(この辺の話をすると長いので割愛、ゴスペルだと思っている推し曲を貼っておきます)


賑やかさや多幸感の演出、という音楽面だけでなく。曲のメッセージとしてもゴスペルがフィーチャーされた意味は大きいと思っています(詳しくは後述)

英詞ですが、
sing along:そのまんま、「一緒に歌おう」
back to time:「あの頃に戻ろう」→楽しい時間(メイドラゴン)がまたやってきたぜ! 的な意味合いかも
swing along:1段目と韻、swingがジャズを意識させる
place to be:直訳だと「いるべき場所」、HIP HOPらしく「fhána参上!」みたいなノリ?

という認識です。こういう所は林さんもノリ優先なのでは。


そしてAメロから、今回の目玉ともいえるtowana & kevin ラップ。
「reaching for the cities」でtowanaさんがラップするにあたり、作曲者のkevinくんがガイドでラップに挑戦した……というのが2017年の話でしたが。ついにアニタイで堂々デビューですね。
towanaさんは(努力の賜物とはいえ)どんなメロやリズムも歌いこなす方なので、ラップが強烈に似合うのも納得。本来ボーカリストではないし(べしゃり魔だけど)喋るプロでもないkevinくんがここまでのクオリティに仕上げてきたの、ちょっとした事件なんですよね。影響元としてスチャダラパーが公言されている通り、ユルっとした文化系ラッパーの感触です。ライブでカバーしていた「今夜はブギー・バック」のラップパートもスチャですね、この辺から気配はしていた。

アニソンで男声ラップというと先駆者はmotsuさん(m.o.v.eとかALTIMA)がいて、最近になってヒプマイ(とパラライも?)で一気に花開いて……という流れがあると思うんですが。そのあたりのバキッとしたラップとkevinラップはかなり違う印象です。いい意味で格好良さよりも親しみやすさが先行していて、かつ女声キャラソン(恋愛サーキュレーションとか)みたいな可愛らしさが出ている。
towanaさんは声質からして素直に可愛いのですが、kevinくんは素人っぽさも微妙に残っていて、それが違和感込みのキュートさだと思います。
この曲はスーパ-ちょろゴンズ ver. もあるのですが、こちらが原曲だったのでは? というくらいキャラ声とラップパートの相性がいいです。そこをkevinくんが歌うことによるちょっとしたミスマッチ感が、青ラプでみんなが踊ったようなキャッチーさにもつながるのでは。

歌詞はメイドラゴンのキャラをイメージさせつつ、しっかり(過剰なくらい)脚韻。日常に訪れる出会いの光……というのが、メイドラゴン作中(小林さんとトールの出会い)やエンタメの在り方を象徴しているようでした。
「誰もが自然と回りだす」は1期OP映像のオマージュですし、
「神様だって踊り出す」は種族や世界を越えた究極のボーダーレス。このあたりもメイドラゴンへのリスペクトたっぷり。

続くBメロ。
「digする」「digる」は「掘る」から派生した、「音楽を漁る、探す」みたいなスラング(kevinくんがたまに使ってたかな?) で、その「掘る」から「穴にハマって」を持ってくるのもいいユーモア。

「爪なんかなくてもいい(戦う必要はない)」
「空なんか飛べなくていい(地上で一緒にいたい)」
のコンボがまさにメイドラゴン。
からの、
「このパーティーがあれば何にでもなれる」
が、ファンタジーに対するある種のカウンターというか……変身もできないし魔法も使えない人間だけど、精神的につながって自由になれるのが(アニメや音楽を含む)カルチャーであり、まさしく「愛」のなせるわざだよね、という意味合いを感じて非常に熱いです。

1サビでは「青空のラプソディ」を思い出させる歌詞を散りばめつつ、そうした「人間の心の自由さ、つながりによる豊かさ」をさらに掲げています。
英語詞で「buddy」を持ってきたのがすごくいい。
「愛」についてはインタビューでも佐藤さんが語っていたのですが。

fhánaは「その人の現在を肯定すること」をずっとやってきたバンドなので、今回の「愛」もそれに連なると思っているのですが。
僕にとって最も近いのが「The Color to Gray Wolrd」における「君が好きだと気づいた」の一節です。この曲は恋の歌ともと取れるけど、より一般化された「あらゆる他者への愛情と敬意」の歌だ……と、僕はずっと考えていまして。
小林さんとトールのような種族を越えた親密な関係、だけでなく。自分とは何かが違う誰かとの間、そこに芽生える絆の可能性への祝福のように響く歌詞です。


2番。引き続いてラップなのですが、韻の踏み方を1番と合わせている箇所が多いです。Aメロ頭に、Bメロの「dig/危惧」やサビ前もそう。

Aメロはスケール感がいちいちデカイ。言いたいことは何となく「World Atlas」に近い気がします、箱庭から出て不確定な世界で人と関わること。そこに、最初は慣れなくて戸惑うかもしれないけど、繰り返せばきっと上手くいく! というエールも。

あとAメロの最後が1番・2番とも「ある光」になっているのも面白いんですよ。それぞれ意味が違う(或る/在る)点もそうなんですけど、ここまで強調しているのは小沢健二の「ある光」のオマージュなのかな……とも思ったのです。僕はfhánaを通じてオザケンや渋谷系を知っているような年代なので、思いつき以上にはならないのですが。




後半からBメロにかけてのテーマは「未知」です。
「未知なることを認める」は、メイドラゴンにおける異種間コミュニケーションそのもの……ではあるのですが。
それ以上に。誰も予想していなかった、けど現実に起こってしまったアレコレを投影しているのでは……と僕は思います。この辺が作られたのは2020年に入ってから、だそうですし。
からの、「1ミリの自由さえあればいい」「愛はどんな形にもなる」が、(1番Bメロと同じく)精神的な自由の話です。

世界は理不尽かもしれない、障害ばかりで不自由かもしれない、けど。
心の自由は出発になるし、愛にも祈りにも意味はある……というスタンス。
この辺りもゴスペルの精神性と被ってきそうです(これも後述)

そして2番サビでは、「青空のラプソディ」に続く、2番で急に切なくなる展開が炸裂です。
アウトロではコーラスにtowanaさん独唱が重なっていますが。パーティー(=愛を交わす場、カルチャーが表現される場)の最高潮だけでなく、その終わりまで描く……という構成、やはり「Wolrd Atlas」「It's a Popular Song」とも通じると思うのです。あるいは「僕を見つけて」「星をあつめて」で描かれた、喪失の後にも残る感情の話。

そしてDメロ前半では、モロに「讃美歌」と「試練・困難」の話になります。ここで改めて、この曲とゴスペルが精神的にも合致しているのでは~という話をするのですが。

(ここからの話、あまり厳密に理解していないなりの解釈なのですが)
ゴスペルの原型は黒人霊歌とも呼ばれていて。

アフリカからアメリカに連れてこられた奴隷たちが、元々の信仰や自由を剥奪される中で、(白人に押しつけられた)キリスト教に救いを求めるようになった。聖書の言葉を音楽にすることで自らの解放を祈り、奴隷だけで集まって歌うことで支え合った。

という流れが出発です。つまりゴスペルには、逆境の中で救いを信じ、抑圧の中でこそ精神の自由を尊ぶ……という精神性がある。
(精神が自由なら身体は不自由でいい……ではなく。身体が拘束されていても精神までは抑えられないから、そこから身体も自由に向かうんだ、みたいなニュアンスです)


この曲での「自由」や、困難な現状にポジティブなエネルギーで向かう姿勢は、そうしたゴスペルの精神とも合致するように思います。

このように、音楽性だけでなく精神性も、(ゴスペルをはじめとする)ブラック・ミュージックへのリスペクトが濃いなあ……と感じて、非常に熱かったのです。讃美の対象が(神というよりも)人間やカルチャーに向いているところも、まっすぐに人間賛歌しているな~と伝わってきました。

(ただ、FCのZoomファンミで佐藤さんに質問してみたんですけど、ゴスペルのルーツまで強く意識した気配はあまりなかったです。それよりも、現在の困難さにスポットを当てた流れでこうなった……と捉える方が自然そう)
(もう一つ。ローカルな文化やマイノリティ発の表現を外に持ち出す流れ、欧米を中心に厳しく見られているとかも聞きますが、僕はこういうガラパゴス的なミクスチャーが好きな派です)

そしてDメロ後半からは、聴き手に語りかけるような展開に。fhánaだと聴き手を登場させる、「第四の壁」を直球に越えるタイプの曲として「君の住む街」「青空のラプソディ」があると思っていたんですが、ここもその系譜です。

「4分半のwonderful world!」とか特に凄いですよね。以前のfhánaは諦めとか分かりあえなさを含めて「What a Wonderful World」と歌っていたのですが、ここでは「この音楽と、音楽でつながる絆こそが、素晴らしい世界なんだ!」です。自分たちの掲げてきたカルチャーとは何か、ファンが寄せてくれた愛とは何かを踏まえた上で、堂々と胸を張るスタンス。
そしてここまでライブの興奮を汲み取った歌詞もfhánaでは珍しいですよね。かつての興奮が夢になってしまった今だからこその眩しさ。

英語詞ですが、have get toは肯定よりの義務・必要を表わすので「光を感じよう、ダンスに加わろう!」あたりになると思います。洋楽に元ネタがある気もしますが不明。

fhána特有のDメロ多段展開がさらに拡張されていたり、コール&レスポンスも多用されていたりと、音楽への熱狂を徹底的に詰め込んだパートです。そしてその勢いのままラスサビへ。
fhánaはサビの歌詞を毎回変えがちなんですが、今回はあえて繰り返しが多くなっている印象です。言葉数が多くなったぶん、コアになる言葉は揃えてメッセージ性を強めた、というバランスかな。

全体を通して「みんなで奏でる音楽って楽しい!」を突き詰めた音楽性でした。fhánaのこれまで重ねてきた精神性……個人への寄り添い、集まることの喜び、喪失への向き合い、クリエイター賛歌といった要素が束ねられて、どこまで熱く前向きに放たれた。これまでになく誇りに満ちて、だからこそ裏の寂しさも推し量られる、そんな温度を感じます。

あと曲のオマージュについて面白い記事があったので紹介です。佐藤さん本人が紹介していたくらいですし、インタビューと照らし合わせても的を射ているのでは。僕はfhánaにスポットを偏らせた視点でこういう文を書いているので、fhánaは詳しくないけど音楽史を俯瞰で見られる……という人の視点はすごく面白かったです。


(カロリー使いすぎたのでc/wは若干ギア抑えめでいきますね)

「GIVE ME LOVE (fhána Rainy Flow ver.)」での、結果的なセルフオマージュ

この曲は先行配信がなかったので、CDフラゲ後はしばらく「fhána Rainy Flow ver.って何やねん」状態だったのですが。

メイドラゴンのキャラソンとして作られた本家(林さん作詞)に対する、fhánaとしてのセルフカバー……だそうです。カバー版が先に公開されるというレアケース。

トラックは「lyrical sentence」に近いと本人たちも語っていましたが。軽快なピアノにキラキラしたシンセが乗って、細かいコラージュが散りばめられている……という、打ち込みメインの懐かしきfhána感です。
そこにツインボーカルのラップが乗っているせいで、懐かしいんだけどすごく斬新に聞こえる、という不思議な感覚です。

ラップ部分はkevinくんが、サビ部分はtowanaさんが作詞……という布陣なのですが。kevinくんの作詞がとにかく面白い。
ラップらしく脚韻が分かりやすいのですが、頭韻の充実ぶりも素晴らしい。加えてアクセントを工夫することで、ラップ慣れしていない人にも「ここで踏んでるよ」と分かりやすくレクチャーができている。
さらっと踏んでいくのが格好いいという感覚もあると思いますが、このあざといくらいの分かりやすさが今のfhánaには似合うと思うのです。

そして歌詞も、過去のfhánaにあったよな~というツボを押さえている。「World Atlas」「nameless color」「Outside of Melancholy」「lyrical sentence」あたりはバッチリ意識した気配ですし、音のサンプリングをやっってきたkevinくんが詞のサンプリングをやったの面白いな~とばかり思いこんでいたのですが。

kevinくんとしては、意識的なサンプリングはしていないそうです。「自然にやったらfhánaっぽくなった」「林さんの言葉選びに染まったのでは?」みたいに答えていたかな。
そもそもテーマ自体が(異種族を描いたメイドラゴンを踏まえての)「人間どうしが分かり合えないもどかしさ」なので、そりゃfhánaらしくなるよな……というのも納得。

ただ、kevinくんの作詞(+佐藤さんのディレクション)はロジカル優先な気がするんですよね。今回は韻が絡んでくるので、カッチリしたルールの上での言葉のパズルという趣が強そうですし。林さんともtowanaさんとも違う思考回路が見えたのも楽しかったです。
実際にfhánaをサンプリングして韻踏むとこんな感じになりました


対するtowanaさんは、文芸肌で綺麗な叙景。towanaさんは感覚寄りというか、メロディーにも合うし字面も綺麗なフレーズを、喉と心のセンスで見つけてくる人だな……という印象です。towanaさんの言葉や世界への感覚、クラシカルな日本文学に通じているような。
fhánaの過去作が浮かんでくるのはこちらも同じで。「雨空」は悲しみや憂鬱の象徴で、青空(のラプソディ)との対比でもあって、「where you are」での空の描写も感じさせて。


(雨の後に)降りる光を花束に……というフレーズ、「愛のシュプリーム!」での「涙の跡には光宿る」ともリンクしているようで特に好きです。

ラスサビだとtowanaさんツインに佐藤さんも加わって、メロディが3つになる箇所がありまして。それ自体も格好いいですし、段々とフレーズが重なっていき最後に合流する流れもお見事でした。クロスメロディへのこだわりが増している佐藤さんの真骨頂(それはそうとライブで苦労するのも佐藤さんなのでは)
バラバラだった人間たちが集まっていく……という曲の構造も表れていますし、いい終わり方です。


「閃光のあとに」と進化する原点

オタクが毎回好きな和賀さんc/wですが。他2曲がラップというレア物であるせいで、この曲を聴きながら「そうそう、この感じ、これがfhánaだよ」と井之頭五郎(from 孤独のグルメ)みたいな顔をしていました。

韻とかカッチリ決めないし明確に語りすぎない、けどしっかり歌声にマッチして印象に残る。それが本来の林さんスタイルだったと思うのです。その意味でも安心感があったし、理屈ではどう頑張っても出てこなさそうな歌詞が味わえたのも最高。

「閃光」とは花火のことだそうです。僕の第一印象だと「これは夕立の歌で、閃光とは稲妻のこと」だったのでした……よく読めばズレてくるんですけど、これくらい解釈に余白あるのもfhánaらしいと思うんですよね(強弁)

花火。夏の高揚の象徴。ラブソングにもお似合いのモチーフですけど、この曲で「僕」は一人で花火を見上げているように読めます。
「僕はずっと探してた、空に花を」……この「花」は現実を彩る何かだったのかな、と思います。疎外感を抱えた空虚な日々に、夢中になれる何かを探していた。そして、ふと見かけた花火がそのキッカケになった……というストーリーが浮かびます。
世間にとっての夏が青春や夢中の象徴で、だからこそ「僕」の空虚さが際立つ、そんな対比も隠れているようで。

メタ的な話をすると。この「花火」は、佐藤さんや林さんが最近よく語っている「本質」の象徴なのかな、と思ったりします。その一端を体感することで世界の見え方が変わる、みたいな。


「本質」がどうかはさておき。青春の焦燥や迷いが描かれることの多かった和賀さん曲に、またひとつ名曲誕生、というナンバーでした。
ちなみに佐藤さんから和賀さんへのオーダーとして「Nord Lead(赤いシンセ)をライブで弾ける曲ほしいのよ」というのもあったらしく。こういう熱すぎないダンサブルな曲が似合うのもfhánaライブですからね。作り込まれた音がどう再現されるかも楽しみです。
(あの赤シンセ、使わないライブでもしっかりセットされている場合がある気がするんですけど……まあ格好いいし良いか)

終わりに~激動の只中に歌うfhánaの覚悟~

コロナ禍になって、たまに思い出す佐藤さんの言葉があって。


佐藤さんは90年代の(平和ゆえの平坦さを前提とした)「実存」をめぐる感覚を、時代が変化した今になっても引きずっている……という話だったのですが。これが大体3年前、京アニさんの件もコロナも気配すらなかった頃の話。

平和ボケゆえの感覚、それが一時期のfhánaの音楽性にも活きていたことは間違いないと思うのです。震災をテーマにした「kotonoha breakdown」とかもあったし、価値観の変化を鋭敏にキャッチするバンドでもあったのですが、どこか浮世離れした視点から人間を描く曲が多かったとも思います。世俗から違うレイヤーで、しかし現代に生きる僕らへ「優しく胸に響くような」歌を届けてきた……という印象。

ただ。「日常の底が抜けてしまった」2018年の後、さらにとんでもないアレコレが起きてしまったこの2年間においては。現実の激動と向き合わざるを得なかった……どころか、向き合わないと歌うこともままならない、というフェーズに来てしまったのではと思います。

いわば、現代のクリエイターとしての覚悟を問い直された。
そして、喪失を背負いつつ、志を継ぎつつ、現在進行形の試練に音楽で立ち向かっていこう、今を生きる人に音楽を届けよう……と覚悟を固めたのが今のfhánaだ、という風に感じます。

そして届ける先、ファンへの姿勢も変わったように感じます。ライブという交流の場がなくなったぶん、ネット越しでのファンとの交流はより密にしよう……という試みは随所に感じます。FCミーティングとかLINEオープンチャットとか、以前は想像もしませんでしたが非常に楽しいですし(諸々の仕切りは伸びしろアリ)

ライムスターの宇多丸さんが語っていたのですが。
音楽アーティストにとって(有観客の)ライブとは、「自分の仕事への肯定が」「目の前から」「熱狂的に」返ってくる機会だ、こんなに贅沢な仕事はない……という側面があるとのことで。

fhána麺、特にtowanaさんはそれが出来ない悲しみを強く引きずっていると思うのです。それは僕らも同じく。

だからこそ、それが叶わない時代さえも、お互いの存在を確かめあいながら共にサバイブしていこう……という姿勢は、心強く温かいのです。まだ絶望なんか全然してない、STORIESはまだまだ続く。

「青空のラプソディ」で感じた、fhánaと一緒ならどこへでも行けるという昂揚と期待。幾多の悲しみを越えた後で、それらを再認識させてくれるシングルでした。

9月のライブ、無事に開催できますように。



あとfhánaと直接の関係はないですが宣伝です。

YOASOBIチームにお声かけいただいて、オフィシャルでライブレポの執筆をやらせていただきました。これはこれで別の文脈が混み入っているのですが、fhánaという「思い入れや文脈を存分に語る」アーティストを追っていたこと、それをファン目線で解釈したテキストを受け容れてくれる環境があったこと、これはすごく大きかったのです。この場を借りて皆さんにも感謝を。各位の協力もあって、当日を知らない人にも面白い記事になったのではと思います。
今回は企画が特殊でしたし、本格的にライター業をやる可能性も低いのですが、いずれfhánaとも何かないかな~という妄想は隠し持っていますね(現実的に難しいのは理解していますが)

とはいえ、頼まれなくても張り切って書くのは変わりません。
まだまだシュプリームに盛り上がっていきましょうね、ふぁなみりー。

お読みいただきありがとうございました、また遠からず現場にて!



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