fhánaの「虹を編めたら」とセクマイと
まず、fhánaの楽曲「虹を編めたら」について、前ブログで執筆したテキストに修正・追記したものです。僕の思考について、やっぱりこのテーマが一つの名刺にもなるので。
【以下、元記事】(2017年3月執筆)
fhánaと書いてファナ、主にアニソンシーンで活躍しつつ、最近ではジャンルレスに足場を広げている四人組です。作家の集まりであり、バンドでもあり。
彼らの8thSGにして、アニメ「ハルチカ~ハルタとチカは青春する~」のOPでもある名曲、
「虹を編めたら」
もう聴いたことあるという方は、あの爽やかながらも苦さを含んだメロディが浮かんでいることでしょう。まだの人は、いますぐにMVを観に行って下さい。僕の文なんか後でいいので。
この曲の音楽面での魅力については、僕の語彙が及ばないので長くは触れませんが………
一瞬でワクワクが喚起される「ジャジャッ」のフレーズとかね。とわなさんと佐藤さんの掛け合いとかね。耳を委ねると多幸感あふれるサウンドとかね。中盤からの怒涛の展開とかね。
ふぁなみりー(fhanaファン、もしくはfhanaを通して色んな所で仲良くなってる皆さん)は勿論、他のアニソンファンが評価してる声もよく聞くんですよね。大学の友人もハマってましたし。
こういう考察は、音楽に詳しくていいオーディオ持ってる方々に任せたいです。てかやって。
今回は歌詞について掘り下げていくんですが。
まず、fhanaサイドの発言については、佐藤さんによるブログやリアルサウンドさんでの記事を読んでください。
いまの社会に、世界にある「多様性」
それらがぶつかり合ったり、傷つけ合ったりするのではなく、交わるようにという祈り。
あるいは、「編んでいこう」という決意。
人の属性とか文化、身体、経歴の違い……いわゆる「個性」ですかね。
それを「虹」と表現している時点で、「それは悪いものじゃないんだよ」みたいな印象は感じますが。
自分の「個性」を盾にしたり、似たような「個性」でより集まって、他を遠ざけたり排外するよりも、違う同士で手を取り合ったり、仲良くなる方がセカイは素晴らしいんじゃないか、という思想なんですね、思うに。
けど完全な融和というか、「違いなんて乗り越えて、僕らは分かり合えるんだ」みたいな話ではないはずなんですよ。
WWWL=2ndAL表題曲でもある「What a Wonderful World Line」
この曲、というかこのアルバムでは、「人と人は分かり合えない、だから孤独じゃない」というテーマが示されてるんですね。一周回った希望。
だから、「違いがあるのは仕方ないし、分かり合えるようなものでもないんだけど、それでも一緒に仲良くなることはできるんじゃないか」という事になるのかな、と。
ちなみにWWWLの「ただ瞬間でも重なるバラバラな世界」は、
虹編めの「たとえそれは幻でも 瞬間心重ねた」とかなり似ているなと。
この感覚、大好きなんですよ……個人的には、音楽がまさにそれかなって。
「一緒に歌う、演奏する」でも、「一緒に聴き入る」でも、バラバラな心たちが重なるような瞬間ってあるよねと、そんな経験があって。
この「多様性」を中心とした思想って、「青空のラプソディ」でも語られてたので。fhanaの柱の一つになったのかな……と。だったら嬉しいです。社会が求めてる気がするんですよ、こういう思想は。
ここから、fhanaともハルチカとも関係ないコンテンツに話が飛ぶので、ご了承を。
それで、今回メインで触れたいのが「名前のない色」という詞についてなんですが。
このフレーズを意識するきっかけになったのが、牧村朝子さんの「百合のリアル」という本です。LGBTQ+やセクマイ関連の心理や歴史などついて、ストーリー仕立てで説明している本なんですが。
もともと虹って、セクマイ関連のシンボルになることも多いですし、読みはじめから虹編めは意識していたんですね。
そこで語られていたのは、
「人の性のあり方なんて、結局は人の数ほどあるのだから、自分を既成の概念に当てはめようとしなくてもいい」ということでした。
例えば、一般的には「女性を愛する女性」を意味する所の「レズビアン」
しかしその中でも、「自分に合うのは〈男性らしさ〉なのか〈女性らしさ〉」「パートナーに求めるのは?」「異性にもときめいたりはするの?」
……みたいな違いはある訳で。
そういうのを考えると、「A(集団、分類)だからB(性質)なんだ」みたいな関係って、成り立たないことも多いよね、と。
だから、「自分はAになるためにBしなくちゃ」とか、「BじゃないからAになれない」みたいに悩んだり苦しむことはないんだよ、「自分の在り方を、概念の中に押し込めなくて良いんだよ」と。
そんな意味合いのメッセージが書かれています。
で、虹編めの「名前のない色」を強烈に想起したんですね。
なぜかって、「名前がつく」って、「分類される」みたいな意味も持つじゃないですか。
これは「命名」じゃなくて、その……特徴から分類するとか、そっちの意味の名づけなんですけど。
だから「名前のない色」というのは、「既成の概念では定義できない、分類できない、ひとりひとり」のことなのかな、と。
人を定義・分類していくと、集団だったり仲間だったり、そういう括りが生まれるじゃないですか。
それは悪い事ばっかじゃなくて……自分の例になりますけど、僕は「ふぁなみりー」って名乗ったり、呼ばれたりするのはすごく好きだし嬉しいんですよ。
けど、そうやって仲間分けをどんどん進めていくと(その過程は色々ありますが)、その中には入れない個人が出てきちゃうじゃないですか。
そんな、「どこにも混じれない君」が居て。
混じれなくて、分類の中に入れなくて。そんな君のままで良いんだよ、そんな個性の連なりが美しいんだよ、と。
だから、違う色と衝突する痛みを恐れて、閉じこもるよりも。
違う色と触れ合った先にある光を信じて、扉を開けよう。
だから、僕の手を取って一緒に踏み出そう。
……そんなストーリーが見えるようになったんですね。(作詞の)林さんがそう考えていたかはともかく。
「僕ならきっと君救えるよ」ってフレーズも大好きなのでね、エモいのです。
そういえば。WWWLツアーのパンフには曲解説のコーナーもあったようで。そこにしかない情報もあるでしょうし、「そういやこんな記述もあったな」とか思い出した人は教えてもらえると。
【以下、追記】
それから、2年半後。
まず、多様性路線を進むのかな~と思っていたfhanaは、最近だと「音楽やライブを通して合流する、メンバーとファンとの旅路」というテーマが強まってきています。シーンによっては語り手視点→主人公視点、というシフトを感じることもありますね。予想とは違いましたが、「ひとりひとりに寄り添う」姿勢はアプローチを変えて貫かれています、相変わらず大好き。
そしてこの頃に構想していた、「レズビアンの女の子を中心に持ってくる小説を書こう」については、Rainbow Noiseシリーズでだいぶ良い所まで進められました。本作のテーマソングはこの曲です。
ただ2年半前は、リアルなセクマイ的要素をフィクションで拾っていくことが、そういう人たちのエンパワーメントになる……という予感を、割と前向きに信じていたんですね。
今でも、自分がセクマイを小説で描く、あるいはこうしてテーマにして記すことで、誰かの常識が広がってくれたら、誰かの支えになるキャラクターを創れたらという祈りはあります。自分なりに真摯に続けています。
一方で。(今のところは)当事者としての苦悩を体感はしていなかったり、さらにはヘテロ男性という(リベ・フェミ的には)相性の悪い属性である身が表現することで、怒ったり傷つく人もいるんだろうな、とも思い始めています……というのも、Twitter上での表現論争を眺め続けていた影響が少なくないのですが。
fhanaがWWWLで示していた「分かり合えないからこそ、一周して希望がある」からさらに一周して、「やっぱり相互理解の断絶はキツい」となっているのは……社会の空気が棘を増して、僕のコンディションも塞ぎがちになっているから、かもしれないですが。
それでも僕は、WWWLを聴きながら抱いていた「この歌は僕を孤独を見つけてくれているんだ」という感動を忘れられなくて、自分は小説やテキストでそれができるってことを諦めきれなくて、何年経ってもこうしてキーボードを叩いているんだと思います。真摯にやる、アップデートは続ける、それでも傷ついてしまう人がいたとしても、書くことを辞めはしない、予定です。
……話はそれましたが、今回何が言いたかったかというと。
違いに悩んだ人、分かり合えない孤独に苛まれてきた人。
fhánaの音楽には、物語には、きっと希望が宿っています。
救われたと感じる一瞬を探す旅に、出てみませんか?
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