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2022/07/18

 スタンリー・キューブリック『シャイニング』を観た。
 この映画で起きていることを言語化することを、映画中盤の赤と白のトイレのシーンのあたりから、自然にしていて、ホラー映画を見ているというより、映画の中の天井のない恐怖の世界から、どう抜け出るか、という観点から構造的に観ていて、これは映画体験と言えるものであるかどうか。
 一人の作家が、狂気に陥らずに作品を書き上げる様を思い浮かべたが、予防線を貼るのが少し早くて、とても象徴的ではあるが、そこまで危険ではなかったのかもしれない。
 もしこの映画を映画館の暗闇の中で、大音量大画面で観ていたら、感じ方は変わっていただろうと思う。映画館という装置を明らかに意識していることは、小さな画面で見ながらも感じた。映画にとって映画館という装置は、何よりも大事な要素であり、そう考えると現代の映画は小さな画面であるいは家のテレビで見られることを前提にしなければならないだろうから、不幸であると言えるかもしれない。
 知らないひとたちと映画を観る、というのも、映画館特有のもので、家で友だちや親しいひとと観るのとは違うだろう。映画館で観る映画は体験になる。映画に限らず絵や写真もスマホで見るとき、それはどうしても記号的になってしまう。大きさの代替として記号がある。記号は知的ではあるが、総合芸術という名に相応しくない一義的なものである。
 雪に覆われた展望ホテルの中で、男と女とその子どもだけしかいない、という設定でも、そこには撮影者がいる。監督がいて、スタッフがいる。その身体性はどこへ行くのか、そこにはいないかのように撮影しても、そこにいる。自撮りではないのだから。身体は常に様々なものから影響を受ける。人がそこにいればその人の影響を受ける。それを断ち切ることが、演技をすることでできるのだろうか。

 さまざまなものを羅列し、それを繋げないということ。断片としての映画は、ゴダールを観ることで学ぶことができるかもしれない。人は物語であり、肉体である。物語のためには、一人の肉体は表層で止まらなければならない。もし、表層に止まらないとしたら、その内面が物語となるだろう。
 知性のない分裂病者の、動きのない表情。自分の地点がわかることで、人は初めてどこかへ行けるが、極点に近づかなければ、どこへも行けない。この矛盾を、作るとき常に頭に入れておかなければならないということ。

 ドストエフスキー『罪と罰』を読んでいる。村上春樹が言っていた、『罪と罰』にはユーモアがない、という指摘が、『罪と罰』を読むことを遅らせていたが、ドストエフスキーを全部読んで何度も読み返すことを自らに課してから、自然とこの作品にも手を伸ばすことになった。とても面白い。まだ六十ページほどしか読んでいないが。バフチンの『ドストエフスキーの詩学』を先に読んだ方がいいのだろうか。

「Open-Dialogueの開発に際し、セイラック教授は著者のバフチンの視点を大きく取り入れた。著者バフチンのポリフォニー論の中核は、独自の他者論。「私と他者との間には決定的な断絶が存在する。他者には他者だけの固有の視点・主観がある」とした。しかし、だからこそ対話が可能となるとバフチンは考える。対話とは、違いを無理に同一化や調和として収束させずに、多声的な違いの並立を尊重すること。この「対話」の姿勢が、余白をもたらし、その余白において主体的な変化が生じる。(≒参加者が能動的に視点や主観を変化させる)。会話がシンフォニーを志向するならば、対話はポリフォニーを重視する。」バフチン『ドストエフスキーの詩学』への斉藤環の書評

 女性とは何だろう、ということも考えている。同じように、男性とは何だろう、と。運命に定められたかのような肉体(男は男の体であり、女は女の体である)に対して、LGBTQのひとたちが対抗する。同性愛者であることが病気であった時代がある。今は病気ではない。個性の一つとして収められている。
 体は体の外によって形が変わると同時に、中からも体は変わる。心というものが、肉体に反することがある。……この話は今のところつまらないので、ここでやめる。

 斉藤環が指摘した会話と対話の違いについては、すごくよくわかるが、ではどうしたら対話することができるのか。調和することは僕には簡単で、多くの人はそれを求めている。しかし友人Kはそれを求めていない、というよりも友人Kを調和することは、友人Kの存在を殺すことに他ならない。
 調和したいのなら、またどこへも行くのをやめて、病的な世界に戻ればいい。

 時は時軸を失ってさまよう。女性の持つ母性(母なるもの)は、僕の病的な内化への向きを変えて、ここにあらしめる。母なるものは決して記号にはならず、記号を元の原世界に戻してくれる。

 あなたがすきだ。

 もう書くことがない、という地点で、それでも手を動かしていく。じぶんひとりだけでは、ポリフォニーを生むことができない。ぼくのなかにいるさまざまな芸術家たち(画家、写真家、小説家、詩人、書道家、音楽家、舞踏家、批評家)も、ぼくひとりが担っている。彼らを独立させることは可能であるのか。今の僕にはおそらくそれはできない。と書きながらそれを試みようとはしている。しかしだ、ぼくはもっと人を知らなければならない。

 書くことがなくなると、日記的な事実だけを書くことになりがちだが、そこから何か立ち上がってくるか。
 今ぼくは祖父母の家の空き部屋でこれを書いている。この空き部屋が現時点のぼくの活動拠点となっている。祖父母の家といっても、二階は伯父さん家族が住んでいるから、交流がある。毎日二時間、中学一年生のいとこの家庭教師をこの空き部屋でしている。といってもいとこが勉強している横で、僕は僕がやりたいことをやり、たまに見て、少し何かを言うだけなのだが。
 空き部屋に本を五十冊ほど持ってきている。今読んでいるものを羅列してみる。
 中井久夫『徴候・記憶・外傷』、吉増剛造『火ノ刺繍』、ドストエフスキー『罪と罰 上』、アルトー『タラウマラ』、神田橋條治『心身養生のコツ』、吉本隆明『日時計篇Ⅱ(上)』、『行動経済学ノート』、『独学大全』、デレク・ベイリー『インプロヴィゼーション』
 この他にも、関心を向けながらまだ読んでいないものや読みかけで止まっているもの(『疾風怒濤精神分析入門』、『カフカ 日記』、『ファン・ゴッホの手紙』、『現代思想入門』、『ウォークス 歩くことの精神史』、『造形思考』、『ディアローグ ドゥルーズの思想』、『ゴダール映画史』など)があるが、それらは仮固定している状態で、その棚は絶えず並び替えられ、交換される。
 これらの本を羅列することは、記録として、あるいは自己紹介として意味を持つことになるかもしれないが、それ以上になるだろうか。
「本をもっとたくさん読みたいとは思うね」
「Fさんと二、三週間に一度話すと、いかに彼女が僕と本の読み方が違うかが分かる。僕の話は全く伝わっていないように感じる。でもある時から、そうやって伝わっていないことが、貴重に感じられてきた。彼女は見るたびに違う本を読んでいるから、知的であると言えるかもしれないが、僕の話が伝わらないという点で、一つの側しかわかっていないとも言える」
「お前だってわかっていないだろう。そしてわかっていないということが、何よりも大事に思えるのだろう?」
「わからないということを分かった上でわからないことを尊重したいのだ」
「同じ考えでない人を次々に殺すことは、ある意味その相手を尊重しているのだと言えはしないか?」
「殺したり、それに等しいことをすることを、一つの極端として認識していなければならないよ。でも、誰もが死ぬ。誰もが死を持って生まれてくる。あらゆる行動はそこから生まれると言ってもいいのかもしれない。ならば、それをそれ自体として扱うこと、つまりは死を強制的にもたらすこと、殺害、あるいは自殺、を、否定することはできないのではないか」
「そんなことをお前、書いてみろよ。それがお前の意見ではなくても、そこだけを切り取られて、炎上するぞ」
「死ぬこと、あるいは殺すことが、否定(非現前にかんする陳述)をされるとき、その時こそ死が現れるんじゃないか」
「何を言っているのかわからない」
「死は否定されて初めて存在する」
「わかるようで、わからない。お前もしっかりわかっているわけではなさそうだ」
「書くというのは、知っていること、わかっていることを書くだけではなく、知らないこと、わからないことをも書くことができる。どんなことを書いたっていいんだよ。中井久夫『徴候・記憶・外傷』の読書ノートを書いていたとき、一番感じていたのはそれだ。わかっていないと思っていたことも、わからないながら書いてみたことで、書いているその瞬間瞬間に立ち上がってくるものがある。どんどん書けばいいんだよ」

 批評を文章に混ぜると、四千字書くことが苦ではなくなる。やはり僕は批評的な人間であり、批評を求めている。
 でも構築物が苦手だ。平均律クラヴィーア曲集を順番に聞くのが苦手だ。シャッフルにすると良い。同じように、本も一ページ目から順番に読むのが苦手だ。同じ本を読み続けるのも苦手だ。ただし、物語を除いては。
 つまり、物語であれば、それを順番に聞いたり読んだりすることはできる。
 人の中に物語がなければ人生は断片化するが、物語によって殺戮が起こるなら、もっと肉体に身を任せたらどうか。作家と言っても、物語作家と小説家の二タイプがいる。村上春樹と保坂和志。中井久夫と神田橋條治についても考えたい。

 映画『シャイニング』の劇中曲がカラヤン指揮のバルトークであったことは、納得であった。ぼくはバルトークは、自極に限りなく近い作曲家として捉えている。
 四千字原稿の連なりを、連載として意識することもしてみよう。何も書くことがないときは、これから何を書きたいかを書けばいい。それを次に繋げていく。

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