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2022/09/14

 活動宣言をした。動画を撮影し、YouTubeにアップロードした。その動画で言ったが、活動とはつくることではなく、黙々とつくったものを直接的に世界にぶち込むためのものである。私が最近フォローした人たちは、「活動」がすごい人である。「活動」がすごいからと言って作ったものが凄いとは限らないが、とりあえず「活動」がすごい。私がつくることの中に、あるいは外に、それらを繋げるように活動とか馬鹿なことを言い始めたのは、なんかそうなっているからである。そこには少しも甘えがないか? 宣言のいいところは、それを公にしてしまえば、取り返しがつかなくなって、自分を追い込むことができることにある。先週の木曜にアルトーの『ロデーズからの手紙』の書き写しをしすぎた上に批評を集中して書き過ぎてしまったゆえに高熱が出てぶっ倒れたみたいなことをしているわけにはいかない。俺は天才だ、とか、俺は凄い、とか言って、できること以上のことをしようとして渡っている綱から落っこちる訳にもいかない。見栄を張って休まずに人と関わるようなこともするわけにはいかない。自分の限界というものがまずあり、あらゆる創造する者たちが辿り着きたい創造のための領域に私は数秒で行くことができるが、常に限界が私に圧をかける。しかし、その限界に対して私は言葉で区切るようなことをするつもりもない。それは私であるからだ。だれもがそこで苦しんでいる。努力せずに苦労した。しかしそれが私の才知であるのなら受け入れよう。私は自らに翻弄され、それに耐え忍ぶことをアルトーから学んだ。
 私がここで展開するのは、ある直感を通してであるが、黙々とつくることに息苦しさを感じたからだけではない。私が考えることは、確実に活動的であるからだ。現状、それは不完全なものとしてある。自分でそれをしながら、急にそこへ放り込まれたという感じさえする。甘い部分もあるだろう。だが自らを作り上げるのは、新しい環境であり、使い古された環境からは、やはりそこでは超越した写真が生まれないように、すっきりと片付いた部屋のようなものだ。分かりきってしまった人と無理に一緒にいるようなものだ。私は宣言の後、考える時間をつくる必要がある。これは新しい環境であり、私は揺らぎなく立っていることも難しい状態にあるのかもしれない。それでもなお、目はギラギラと混沌を見ている。今日書き写したアルトーの手紙には、神の無限について書いてあった。世界が瓦解しているのを前に、身体が崩壊することなく、思考障害になることなく、幻のような速さで狂乱を生きたアルトー。これは一つの実験だ。まだ早かった、となれば、いずれも経験である。とにかく私は活動宣言をした。この揺らぎは懐かしいものだ。もしかすると私はつまらないことをしたのかもしれない。それならそれでいい。地盤を固め直してから、先へ進もう。

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