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2022/07/17

 始まりはいつも窮屈で、体が固着しているようになる。それをどこまで柔軟にして、全身運動にしていくか。
 これは四千字原稿である。
 始めよう。

 質はどうでもいいのだと坂口恭平から教わった。文章をnoteに公開することを前提に書くと初めて友人との対話を録音したときのような緊張がある。でもそんなものはすぐになくなる。隣に誰かがいたら、今こうして文字を打ち込む僕の体はその体になる。体は色々なものから影響を受ける。それは舞踏的であるが、作家もまた世界や自分の国や住んでいる町や自宅や自分の部屋から影響を受けている。机に対し、左側に本棚があり、その並びは僕の身体に直接的な影響を与えている。本は生きている。呼吸している。それは静かに染み込んでいく。この原稿は批評ではない。なら何なのか。
 批評もここでやることになるのか。
 ここがどのような環境であるのか。オンラインとオフラインでは、うごきのあり方が違うことを今朝話したところだ。オンラインは電車に乗って風景を見ている感じで、オフラインは歩いて、あるいは立ち止まって風景を見ている感じ。どちらも大事だが、人間を根本的に支えるのは立ち止まって風景を見ることだろう。
 風景について考えたい。
 風景から思考する、とはどういうことなのか。
 人は体に縛られすぎている。風景は生まれる前からあり、死んだ後もあるだろう。そういう前提でそこにある。それは動かずあり、故に動いている。そこからどのような思考が生まれるか。体から作り出すことの極限を行けば、アントナン・アルトーのように器官なき身体を会得するかもしれない。アントナン・アルトーは『タラウマラ』を読んだだけだから、まだ多くを知らないが、器官なき身体のあるべき器官は世界に配置されているのだとしたら、個を起点としたものだと言える。制御棒のない原子炉、という中井久夫の言葉がとてもしっくりくる。ただでさえ巨大なエネルギーを、制御しないことにより通常の四百倍の力を出すことができる。自己と太陽は長時間見続けることはできない、これも中井久夫の言葉だ。太陽とは、世界にある最たるものだと言えるかもしれない。自己とは内的世界の最たるものである。それは『徴候・記憶・外傷』p28の図の「自極」と「他極」のことを指す。この両極端の真ん中に近ければ近いほど人は精神的に健常であると言える。自極に限りなく近づくと「超覚醒……天井がな」くなり、他極に限りなく近づくと「パラタクシス(幻覚・妄想など)」が起こる。瞑想は自極に近づくことであり、瞑想における超覚醒とは宇宙を知ること、あるいは神を知ることになる。自分を極限で保つことができれば、宇宙や神を知覚することができるのだろう。しかし多くの人は保つことができず、超覚醒してパニックになり、自我障害となり、あるいは自らを失い、自らであったものは世界へと分散する。「この状態を今日絵として描いてみてください」
「いいですよ」
「肉体はどこまでも過剰であり、過剰であるということを調整する必要はない。他者との調和は社会では必要であるだろうが、お前には必要がない」
「調和というよりも、自己対話に興味がありますね。自らに思考における両極を作り、そこを循環させることで何か別のものを立ち上がらせること。僕はもしかすると他者との関係を欲していないのかもしれない。だから、お前は対話ができていないと指摘されたら、その通りだ、なぜなら俺にはそれが必要がないから、と言うことしかできない」
「対話の必要性について考えたことがないの?」
 そうだね、異物としての思考が、何よりも重要だ。
「対話がなければ人は自分自身の異物にも、他者の異物にも気づくことはできない。調和、つまりは皆で一つになることを求めているのならそれでもいいだろう。でもお前はポリフォニーを求めているだろう? だからドストエフスキーを毎日読んでいるのだろう。早くバフチンの『ドストエフスキーの詩学』を読みたまえ」
 同じ場所にとどまることは僕にはできない。一つの何かが出来上がってしまったらそれを壊したくなってしまう。それを抑圧し続ければ戦争が起こる。
「調和とは自己自身が求めるものだ。他者との調和を求めるものは、元々一体になることを知らない者たちだ。つまり、対極にあるものを人は欲する。お前に対極にあるのは、唱和の世界である」
「小島信夫『残光』を読みたくなってきたね」
「一冊の本を読むということが可能であるとしたら、両極をちょうどよく往復することができる場合に限られている。必要なものはバランスです」

 風景が必要であるのは、お前は太陽を見るべきだからだ。風景は太陽に所有されている。もちろん、太陽を直に見ることは危険である。しかしそれに限りなく等しく、風景は太陽である。もし太陽がなければ風景は存在しない。夜の暗闇で聞こえる木々の音を思い出してみるといい。あれは風景ではない。

 私たちが考慮すべきは、自分自身が持っているものもそうであるが、自分自身が持っていないもの、つまりは欠陥を見るべきだ。
 私が持っていないものは、風景であり、記憶である。
 死んでいたとき、ぼくはある部屋を克明に思い出そうとしていた。それだけはできた。
 記憶。

 保育園の時、先生とみんなと一緒に、保育園の近くのお墓の中を楽しそうに歩く自分たちを、保育園から見ているという記憶。
 ある記憶を象徴的なものと見做し解釈することは、記憶の抹殺である。

 風景。
 川が流れている。川は三千の粒子を運んでくる。三千の粒子はそれぞれの色を持ち、色は風景内のさまざまなものと呼応し合う。水はいつでも違う。色合いが変わる。川の中に一本の木がある。木は人間ではない。人間は川ではない。川は歩いたりしゃがんだり自慰行為をしたりしない。ぼくは自慰行為をしない。性的欲動はすべてリビドーへ向かい、リビドーは生命の基盤となり世界の基盤となる。とめどなく書き続けるということが、回避することであってはならないが、立ち向かい続けること、つまりは太陽に向かうことは危険である。太陽を見つめる一人のヨガ行者がいる。成瀬雅春のヨガの本に太陽を直視する修行があったことを思い出す。あれは瞑想に対峙する、宇宙の神秘に向かうことなのだろう。風景とは自我と太陽の間にあるものなのだろう。環境によって身体もその内の自我も大きく影響を受ける。自我が環境に固着することが、どこにも行けないということであるのなら、柔軟に動き、移動することは、自分自身を大きく変える。
「あなたの席に座りたい」
「なぜ?」
「あなたが好きだからではなく、嫌いだからでもなく、その固有のものを内側から知り、それを破りたいから」
「あなたは私の処女膜を破りたいと言っているの?」
「痛みと血と緊張と快楽の記憶が肉体に刻み込まれるということはありうるね。若年性アルツハイマー症の少女に性行為を教え、その次の日にはそのことを忘れていたとしても、体は覚えているだろう」
「濡れる、って言いたいのね」
「病は気から生まれるのではなく、太陽光の変圧から生まれる」

 光と海と地下熱の絶え間ない波動を肉体は感じ取る。感じ取るとはどういうことか。そう、書くこと全てを問い、疑うこと。
 感じ取るのは肉体でも脳でもなく、魂であると言うのなら、あなたは記憶が震え上がっている。
 記憶の黄砂は果てしなく、存在の影にまで宿る。
 どこまでも行く必要があるが、その体とその風景はそれぞれ固定されていてはならず、体と風景の呼応も同一であってはならず、絶えず移り変わらなければならない。
 お前はとにかく鍛え上げることから始める。
 しかしだ、一つのテキストを前にして、それを固定し、自分もまた固定し、それと自分との関係を循環させることが、批評のひとつのあり方と言えるのではないか。
 批評するために鍛え上げる必要があるのは、担保する力だ。
 工場で作られたものではなく、人が作ったものであるということ。
 人は機械ではなく、川でもなく、耐熱容器でもない。
 肉体は制御棒をなくしたかのように加熱し、メルトダウン寸前まで行く。近隣国をも何十年も覆い尽くす放射能は、神の巨人が精子を散りばめたかのように言葉だ。
 肉体を疑え。

 どれほどのものも容赦なく、時間は限られているという言説によって限度を保たれる。どんな言葉も、文字として傷として世界に刻まれるとき、時間を越えて暴れる。だから『現実宿り』の書かれると同時に消えていく砂の文字を、せかいは求めている。人はそれに闘わなければならないと思い込んでいる。実際に、ぼくらは誰もが書こうとし、描こうとしない。誰もが書くのではなく描くのであれば、戦いが起こることはないだろう。誰もがそれぞれのやり方で作り続けることができれば、皆が芸術家となり、実践的な批評家となり、生き物が惨殺されているのを前にして「僕らは当たり前のようにゴキブリを殺している。だからその惨殺を否定することはできない」などと言うことはなくなる。「虫を殺していいのなら、人間を殺してもいい」という言説。「いいやそれは違う、人間は特別だ、なぜなら知能をもっているから。でも虫を殺していいのなら、動物も殺していい」という言説。「食用の動物を殺していいのだから、ペット用の動物も殺してもいいのだ」という言説。
 言葉があることで、世界は歪み、やがて言葉を生み出した人間をも言葉は殺す。言葉は生き物であり、間違うと大変な怪物になるのなら、その言葉を殺さなければならないが、それもまた危険思想であるということから、僕らはどこにもいけなくなっている。とりあえず何かツイートしたりリプライしたりいいねしたりリツイートしたりする。どこで止まることができるのか。人間は二千年前から変わらないのなら、僕らに何ができるだろうか。

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