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2022/08/06

 カフカは何十キロと歩く。ベケットは一日四十キロ歩いていた。ニーチェの散歩道は登山道のようだった。ヴァージニア・ウルフは八マイル、即ち十三キロ歩いていた。彼らは書き続けると同時に、歩き続けた。歩くことは書くことであった。私たちは手帳を持ち、歩きながら紙の上にしるしまたは傷をつけ、それが思考の形跡になることを知りながら、それを参考にするでなく、それぞれの時間で、原稿に書くことを止めなかった。
 もう僕は何も今は書けないような気がしているが、それでも書くことを止めなければ、何かが流れる。メモ帳やノートに書いたものは書いた途端に昆虫標本になってしまうので、そこから生きた羽、生きた蠢きを想像しなければならない。もしかするとその歩行はもう幻の中を通ってどこかへ消えていってしまったかもしれない。
 映画を見たり漫画を読んだり。小説を読むことは特別なことではないのに、皆はイメージすることなくイメージ化されたものを見る。小説は映像とか概念とか記憶とか物語とか色々言われるようなことだけでなく肉が持ち続ける残像の光を開花させることにあるのだと、こうして言ってみて、どこかへ行けるのか。
 虫が鳴いている夜は見えない朝と夜は違うでも同じ場所だそれは本当か同じ場所ではなくなる光がない光がなければ。古代火事でも起きない限り明るさは夜になく、夜、手癖が引き出してくる固定された固定点をどうにかして動かそうとしている。
 自らの思考を敵とすること。パターンが見出せるものすべて敵であり、既に残骸である。残骸は燃やさなければならない。古代人の目に映る山火事はどんなに呪術的であったことだろう。
 もし断片しか書けないのなら、そうそれがメモ帳やノートに書くことであって、それを自分自身で体系化する、その体系化がパターンではなく固定された固定化ではなく移動としての仮固定であり、死んだ知識に呪術を与え蘇らせることであり、構築を簡単に否定する前に、一度構築してみることだ。
 つまり断片を集積し、それを構築し、それを身体の移動点としての仮固定を成した上で流れを作ること。とどまるくらいなら、間違った方へ急降下すること。それはもしかすると急上昇かもしれない。
「真に正しい時、その中には間違ったことが含まれている」と、メモに書いた昼過ぎの涼しい夏の曇りの道、間違った言葉を書くことが俺の身体を移動させる。同じ道ばかりを歩いていてはつまらないが正しい。行ったことのない道、危険そうな道、あるいは道ではない山や森や川や海底を歩くことは危険だが、それが真に正しい道となる。道とかと言うと名言っぽくなってうざいが、俺は歩く時カメラを持っている。
 なあ、もうメモ帳にそれは書いたんだ。ここに同じことを書くのか?
 同じことを書くことで、何か起こるかもしれないぜ。
 Tさんはみんなに同じ話をしているんだ。Tさんは携帯を隠された。
 ああ、俺らは流れているわけではないということだ。
 ぜんぶやれ。ぜんぶやれぜんぶやれ。それがお前をここに存在たらしめ、それがお前の大前提となる。欠損がすべてに及んでいるということだよ。絵だけを描く人写真だけを撮る人小説だけを書く人、その人たちとお前が違うのは、世界への結びつきが、全域に欠損としてあることで、その断罪としての創造なのだということ。創造者全員を呪詛しろ。お前自身が作り出したもの、作った瞬間に呪詛の対象となる。呪詛からの逃走又は闘争としての創造。作り上げた途端、それは死んで呪いを生む。
 馬鹿か。お前が身体を甘んじているとき、もうすでに痛みは限界に達し、アントナン・アルトーの影が幻が立ち上がっている。お前、闘争の意味がわかっているのか。アルトー・コレクションⅠ『ロデーズからの手紙』を読め。

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