見出し画像

2022/07/19

 小説でも思想書でもそれ以外でも、本を読んだらまず四千字原稿を書く。読んだものの中から僕がどのようにしなり、うめき、かわり、澱んだのか、書くことでそれを見出すと同時に、書くことでそれらの反応の先にある自らの身体の発動を起こす。その後に読み返しというものが生まれる。読み返しとは整然とさせることであり虚構を建築物として再構築することである。決して風景そのものを見ることではない。風景を見ることもまた、その見るということが記憶そのものであり、記憶とは物語だからである。
「しかしだ、物語には必ず起承転結がある。それは幸福と絶望を生み、戦争と平和をうむ。戦争も平和も文字群の暴走であり、それもまた物語に回収されていく。物語とは声であり、声もまた記憶なのである。お前、声を声たらしめずに声であることを、どうすればできると思う?」
「声が意味伝達ではなく、その発声がそのまま運動であるということが肉の限界点を突き破ることになるだろう。意味を伝えなければいい。記憶を喚起しなければいい。無慈悲の咆哮、すなわち動物になることである」
「ああ、神田橋條治『心身養生のコツ』の第一章『養生のための物語』を読んで得たのはそれだね。しかしだ、そこで書かれていたのは「時間と空間の共有、見よう見まねによる文化伝達、音声言語学習」としての「体験文化」と、「時間と空間を離れた学習によるもの」である「文字文化」の共存によって人間は永らえてきたということだろう? 「「極限状況」において「こころ」は「からだ」を無視して「文字文化」を支えとして「頑張れる」」とある。それについてはどう思うんだ」

(音声言語学習が体験的であるとしたら、黙読しながら頭の中で音読することは、体験文化に近く、音読はさらに体験的である。『独学大全』に書かれていた完全な黙読(頭の中でも音読しない)の方が音読よりも速く理解力も高く読むことができる、というのは、「文字文化」としてであるわけだ。「文字学習は体験学習の仲介が得られた部分だけが「からだ」に繋がり「身につく」」のであれば、知的であるだけの読み方は身に付かないということである。僕が『徴候・記憶・外傷』を読んでいて感動するのは、それが知的な操作ではないというところにある。)

「それで言えば、声は「こころ」と「からだ」を行き来するものであるということだ。ああ、文字を読んでいて声を感じるということがどういうことだが、お前にわかるか」

 体が痛い。それは肉の喜びである。原始、太古からの想像力である。誰もが本当は体が痛い。無痛病者だけではなく。引っ掻き傷としての文字は、肉からにじみでた血だ。血は川のように流れる。川は血のモデルである。隅田川は江戸時代には数えられないほど氾濫している。固定していなければ常に氾濫の予兆であり、その中で人々は暮らしてきた。身体が伸びたり、縮んだりするのは、川のようである。しかし川が枯れることはなく、枯れるとしても別の細胞が騒ぎ出して氾濫する。そこは砂漠だった。砂漠には砂が生きていて、不変であるがゆえに流れ、うごき、文字を生んでは消えた。それを観察していたファラオの息子アジャスタがアラビア文字として現世に残し、概念領域との回路を物質的に見出した。
「文字は物質なのか?」
「ああ。だから物質ではない文字という前提は、このような時代にあってもあり得ないんだ」
「しかし生み出されたことが結果であるにしても、そこが原因となって別の結果を生むこともあるだろう?」
「それがインターネット時代の基本モデルかもしれない。原因と結果という構造が退屈であれば、元のものとそれによって生まれたもの、という言い方でもいい。今は「それによって生まれたもの」が「元のもの」として流通している。だから「元のもの」を生み出した身体が稀薄になる。ああ、おれはこの話よりも、別の話をしたかった。でも忘れた」

「そうか、声は、だれかの声でありながら、ぼく自身の声なんだ。その声と一定の距離を取らなければ、つまり「自閉」した上で声を発しなければ、あるいは聞かなければ、その声によって自我が破れる、破れた自我は世界の残骸となり、そこにいてもそこにいないかのように見られ、サミュエル・ベケットは分裂病者に対してそれを思った。そこにいてもそこにいない、つまり、声は風がなくても掻き消えるのでもなく、そもそも発声されない。発声という可能性がない。そこには何もない」
「空気が声を発するということはあり得る?」
「空気によって声は生じる。空気がなければ声はない。声は空気とともにある。だから、声はどこにでもあらわれる。しかしそう言って、どこにでも声はあるなどということを信じると、お前はその無限の声によって解体される。声は生き物だけが持ち、それさえもその全てを感じることはなく、お前の声も、発せられていないのであれば、そこにはない」
「どうもありがとう」

 ありがとうとは何だ。何のためにお礼というものがあるのか。それは私と他者との交通信号であるのか。他者を謝絶することの暗示? 警告?

 異常状態に対する考察。「「症状」すなわちせめぎあいの姿の中には、命を復旧しようとする保つ力の現れが隠し絵のように表現されている」
「これ以上読むな」
「どうして?」
「読むことは声を聞くことである。それは人と話すことに等しい。お前は人と長く話すことはできない。しかし人は常に声を発しているわけではない。もし声を発し続けていると思うのなら、それはお前が瞑想している時の状態に近い。瞑想していると自分に近づき、自分が解体されていく。それを統合する必要がある。しかしその力がお前にはない。統合は原理である。原理は何ものにも通用する。しかしそれを適用する能力がないとき、自我は破壊される。読むことは自我を解体することである。それを再構成する力がない。それは声を聞くことと発することの循環である。循環はどこにでも起きる。なあ、災害は自然だけに限らない。妄想することは、世界の局限化である。局限化によって、事態は進むかのようで退行する。退行によって(子供が、自分の弟あるいは妹ができたことで赤ちゃん返りし、その後にお姉さん、お兄さんになるように)世界の広さを知る。その時、無限という言葉を使うことはできない。僕らが自然や社会を認識するのは、有限の法則によってである。言葉とは有限のものである。空、と書いてみて、それが無限の空を想像させることはない。記憶として、あるいは肉の傷の痛みとして、空が有限の空として喚起されるのみだ。俺が書いているこれは、もう少し先で、燃え上がる」
「燃えた後にも残るのか。燃えると言っているが、お前はディスプレイに向かって書いている。ディスプレイは燃えない。割れたり、溶けたりはするかもしれない。紙の文字が溶けることはない。いいや、水に溶けるかもしれない。水と声の関係。あらゆるものに関連を見出すことは、それが局限化でない限り、解放である。それは因果関係を凌駕しなければならない。この世には結果しかない、と声がする。その声はどこからも発せられたわけではないのに、聞こえる。それは私の過去の声の記憶や集積からうまれたものと言える。私の声である。全ては私の声である、というのが調和の原則である。唱和すること、ポリフォニーは、いくつもの声がそれぞれ独立してあるということ。調和のように依存し合わず、調整も行われず、それぞれがそれぞれのあり方で叫ぶことができる。叫びはそのまま、世界を解体すると同時に、自己を統合する。おれは矛盾していることを言っているか? もしそうであるのなら、おれはうれしい。なぜかはわからない。この世には説明しない方がいいこともあるのか?」
「それが説明しなくても説明される予感や予兆のただ中にいるのなら、説明することで説明不可能であることを見出すしかないだろうね。文字文化に縛られたお前は、そこから脱却するために声を出す。声は複合であり、数えきれないものである。単一でも複数でもない。その声が、五、六人いれば五、六人の唱和となること。分裂病者に強い関心を持つBさんは、僕の調和能力を惚れ惚れと聞き入る。そこに甘んじることなく、その場所に慣れ親しむことに従事するでもなく、次々に存在を陥落させること、その想定をもち、やさしく振る舞うこと。どんな話にも、それなりに適当な距離を持って、微笑む。微笑みが鉄壁であるようにと、祈るお前は、それを実践しなければならない」

 声よ。
 そこにあるのは耐熱であり、声の発熱は聴者の耳を焼く。耳は感覚器官としての深淵である。どこまでが耳で、どこまでが首であるのか。耳は耳である。首は首である。それを疑うことは、病的な世界へ再び没入することである。そこにある観葉植物は、そこにある。生き物の表面は空気との交流がある。しかしそれを見ることはできない。見ることができないものを、見ようとすること、神秘の皮を剥くこと、それらをすることは自らよりも相手の中に入り込むことである。
「きみが性行為に興味がないのは、神秘としての異性の皮を剥ぎ、中に入る、入られることを、禁じているからだろう」
「そんな下劣なことを言うなよ」
「もしかするとお前は、誰とも交流することがなくなるのかもしれないな」

「それはないな」

「時間がない、と言う時の時間は時間ではないね。心の余裕がないということだね。その心というのも、本当の心じゃないね。ただ焦っているだけだね。言葉に厳密になりなよ」
「言葉を使うときはその姿勢を固く保持する必要はない。どんどん言葉を出していくことが何よりも重要です」
「重要、と言って、大事、とか大切、とかと言わないところが、厳密だよな」
「知性からくるのではなく、内臓あるいは唇が要求していることですから、それは喉が渇いた時に飲みたいものがわかるようなものです」

「そうですか。さようなら」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?